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第62回文化サロン・講演会

平成27年5月28日 もりおか歴史文化会館

岩手、盛岡 大地の成り立ち

講師 柳沢忠昭 先生(日本洞穴学研究所 代表理事)
第62回文化サロンチラシ
第62回文化サロンチラシ
柳沢忠昭先生
柳沢忠昭先生

  プロフィール
 宮古市出身、岩手大学教育学部卒業後、岩手県内の高校教諭、岩手県立博物館学芸調査員として、個人研究やクラブ指導を通じて鍾乳洞や北上高地の地質の調査、天体観測に携わる。鍾乳洞をつくる地下水流のつながりや水質について調査を続けているほか、岩泉町ジオパーク推進協議会委員として、ガイドブック作成等にあたった。

  【主な社会活動、研究団体】
日本洞窟学会会員 日本洞穴学研究所代表理事
岩泉町ジオパーク推進協議会委員
盛岡天文同好会会員

私たちが暮らす、岩手の大地はどのように誕生したのでしょうか。岩手県の面積のほぼ3分の2を占める北上山地は、三葉虫、アンモナイト、恐竜などの化石を産し、全国でも古い時代からの地層が揃っていて、その東半分が2013年に三陸ジオパークとして認定されました。
 今回は、北上山地の形成の過程や中生代白亜紀に起きた大変動とそれに伴ってできた花崗岩類、その後の長期に亘る侵食で平坦化した後に隆起に転じてつくられた山並みや三陸海岸の地形、そして岩泉龍泉洞の神秘等について、鍾乳洞を中心に北上山地の研究を続けている柳沢忠昭先生にお話しいただきました。

【北上山地激動の時代とその後のカルスト形成】

 今回は、北上山地の最も激動の時代である中生代白亜紀の様子と、その後穏やかな時代を迎え、やがてカルストという地形が形成されていった時代を中心に話をさせていただきます。

柳沢先生講演風景
柳沢先生講演風景

 最初に、近年話題になっている「ジオパーク」について説明させて頂きます。
 ジオ(GEO)は大地のことで、その地域の大地について学習しながら保全し、教育に活用しながら経済的に活用していこうというのがジオパークの考え方になります。ジオパークといえば新しい発想のように見えますが、20年前ごろに「グリーンツーリズム」とか「地元学」という動きがありました。それの地質(大地)版だと考えれば良いんじゃないでしょうか。岩手県内でもジオパークの話が出て来た時、釜石市とか田野畑村などの地元学で先行していた市町村は割と上手く流れに乗れた感じがします。地元学があまり上手くいっていなかった市町村もジオパークの話が出てきてプラスになった感じがします。立派な地層が出ているなどのジオパークの拠点となる所をジオサイトと呼んでいます。ジオですから本来は地質や地形ぐらいが中心ですが、このジオパークという発想はもっと広くて、大地の上に住んでいる生物あるいは産業なんかも含めてジオサイトとしています。
 ジオパークの設立の経緯ですが、2004年に世界ジオネットワークがヨーロッパを中心に発足し、日本では2009年に日本ジオネットワークが設立されました。
 2014年9月現在、世界ジオパークは32ヶ国で111ヶ所、その内で日本は7ヶ所が認定されています。一方、日本ジオパークは36ヶ所が認定されています。三陸ジオパークは2013年に認定されました。これらは4年毎の再審査でチェックされ、取り組みが甘いとか、環境保全がうまくいっていない等の問題が指摘されると落とされます。世界ジオパークに認定されるようにこれから育てて行かなければなりません。
 三陸ジオパークは、2011年7月に「岩手三陸ジオパーク」として申請の検討が始まりましたが、三陸海岸は青森県から宮城県まで含んでいるという事で、「三陸ジオパーク」構想に拡大して申請し、青森県八戸市から宮城県気仙沼市までの南北220kmにおよぶジオパークが2013年に誕生しました。
 ここから地質の話に入っていきます。地質を学ぶ時に重要な用語がいくつかあります。その一つが「地質時代」という言葉です。地質時代とは地球の過去を区分したもので、その時に使われるのが化石です。生物はおよそ38億年前に誕生し、徐々に複雑な生物に進化してきました。その過程で、ある時代ではアンモナイト、ある時代では恐竜と特徴的な生物が生きていました。その化石を元にして区分します。このように生物の進化を元に区分したものを相対年代といいます。その時代を教えてくれる化石を示準化石といい、三葉虫、アンモナイトなど生物の化石を元にして先カンブリア時代とかジュラ紀とかという風に時代を区分します。

不整合
不整合

 一方、この岩石は何年前にできたかを年数で示したものを絶対年代といい、その測定には自然に存在する放射性元素を利用します。実用レベルになったのは70年ぐらい前です。これが利用できるのは花崗岩などの火成岩(マグマが固まってできた岩石で、化石は含まれません)に限られますので、ジュラ紀は何年前というような話をする時には、相対年代と絶対年代をそれぞれ組み合わせていかねばならないということになります。その組み合わせ方を話す前に、「不整合」というもう一つの重要な用語を理解する必要があります。
 不整合は次のような過程でできます。海あるいは湖でほぼ水平に堆積した地層が隆起して陸化し、地表が風化・侵食作用を受けて不規則で凸凹した侵食面(地表)ができます。その後、この地域が沈降し再び海あるいは湖となると、その侵食の上に新しい地層が水平に堆積します。このような下の地層と上の地層との間に堆積の中断がある関係を不整合といいます。このような宮古層群とその下の地層や花崗岩との不整合は、岩泉町茂師海岸や宮古市田老町の三王岩付近などで見られます。

【北上山地の成り立ち】

 北上山地は盛岡、早池峰山、釜石を結ぶラインの北と南で地質構造が異なり、北の方を北部北上帯、南の方を南部北上帯と呼んでいます。
 北部北上帯の特徴は古生代の末から中生代にかけての深い海で堆積した堆積物で、ジュラ紀頃にアジア大陸に付加したものとされています。北部北上帯は、深い海で堆積した岩石が多く、化石はあまり含まれません。放散虫やコノドントというわずかに出る化石によって研究が進められています。水深7000mとか5000mという深い所で北部北上帯は出発したということになります。

北上山地の形成
北上山地の形成

 それに対して南部北上帯は、赤道付近にあった大陸あるいは大陸の端で生まれたと考えられ、主に古生代の中ごろから中生代にかけての浅い海の堆積物で化石が多く含まれています。それがプレートの運動で北上して、やがてアジア大陸に衝突し、現在の配置になったとされます。
 北上山地が最も激しい変動の時期を迎えたのが白亜紀です。この時代の初めに年間数cmの速さで南から移動して来た大陸の破片がアジア大陸に衝突して、南部北上帯の原型となります。さらにその外側の海溝付近には海洋底の岩石が付加して北部北上帯のもとになります。
 これらの衝突や付加によって、北上山地が現在の配置になった中生代白亜紀に大量のマグマの活動(1億3000万年から4000万年ぐらい前)が起こりました。
 マグマの出来る仕組みを説明します。日本列島の地下では、年間数cmずつ移動する太平洋のプレートが沈み込んでいます。その際、摩擦によって歪みが貯まり、岩石が耐えられなくなると地震が起こり摩擦熱が発生します。また、引きずり込まれた地層に含まれていた水が放出され、岩石を溶かしやすくします。そのようにしてプレート境界付近の岩石が溶けてできたマグマは徐々に滲み出て上に溜っていき、マグマの圧力が限界に達すると噴火するということになります。
 中生代白亜紀前期に北部北上帯が隆起して陸地になったころに、その地下で大規模なマグマの活動が起こり、一部は地表に噴出しましたが、大量のマグマが8kmとか10kmといった地下深くで固まりました。
 今私達が立っている盛岡は、北上山地が出現し始めた頃は地下8kmぐらいだったということになります。その花崗岩は、現在、北上山地の総面積の4分の1ぐらいの面積に露出しています。大きなところは遠野盆地で、それから宮古花崗岩、田野畑花崗岩、階上花崗岩、千厩花崗岩、姫神花崗岩というようにあっちこっちに顔を出しています。
 花崗岩(ゴマ石)は、固くて物理的な力に対しては強いのですが、化学的風化を受けやすく、粘土と石英の砂の混じった真砂土(山砂)が残ります。この化学的風化は地形の形成に大きな影響を及ぼします。
 姫神花崗岩体を例に見てみましょう。姫神花崗岩は姫神山と主にその西側に分布しています。姫神岩体は固まっていく段階で、子桜型、高木型など様々なタイプに分化しました。このうち、小桜型は良質の建材として採掘され、盛岡市内でも多く見られます。

姫神山頂
姫神山頂

 花崗岩の小さな裂け目に沿ってしみ込んだ水によって風化が進んでいくと、裂け目から離れた所は丸くなって残り、玉石となります。排水が良くない地域では風化によってできた真砂土は、玉石のまわりに残ります。玉石の採石場では真砂土の中から玉石を採掘しています。一方、排水の良い所では真砂土は流されてしまい、残った玉石が積み重なっていきます。姫神山の頂上では残った玉石が積み重なっているのが見られます。
 これと似たようなものが盛岡花崗岩でも見られます。盛岡花崗岩体は盛岡市市街地の東側に露出し、市街地では北上川などの堆積物が花崗岩の上を覆っています。中津川は東から流れてきて、花崗岩体を横切り、北上川と合流して盛岡の平地を作っています。化学的風化によって、花崗岩の分布域は低地を作る一方、花崗岩は固いので地震に対して強く、岩手県が誘致しようとしている、ILC(International Linear Collider)も花巻市から一関市にかけて分布する花崗岩中に計画されています。
 盛岡城址付近の地質断面図を見ると、盛岡城址では花崗岩が顔を出していて、その西側では北上川の堆積物に覆われています。当時の人は経験上、盛岡城址の場所は地震に強いことを知っていたんじゃないかと思います。
 盛岡城址の坂の所に大きな花崗岩の玉石があります。池沿いの所にも玉石を採石した跡があり、お城の築城に利用したのではないかと思われます。

三ツ石神社
三ツ石神社

 岩手県の名前の由来になっています三石神社の石について、昔話では岩手山から飛んできたとか、雫石か滝沢の力持ちが投げたとかという話があったみたいですが、三石神社の石は花崗岩で、岩手山の石、安山岩とは似ても似つかない石です。三ツ石神社の花崗岩の表面を観察すると、数方向の節理(小さな割れ目)が見られ、その方向は全ての岩で同じ向きです。このことはここで風化に耐えて玉石として残ったものと云うことになります。また、石割桜については20年ほど前、盛岡一高の生徒たちが課題研究で調べたところ、割れた花崗岩や離れた石も節理の方向が一致し、これもその場所で風化して残った玉石だと云うことが分かりました。

盛岡東方の地形
盛岡東方の地形

 花崗岩のように大量のマグマが入って来るとその周辺で岩石が焼かれます。それを接触変成といいます。花崗岩がマグマによって周りの岩石が接した部分が、800℃〜900℃の温度で何百万年も焼かれ続けると接触変成岩という焼き物(接触変成岩)が出来ます。泥岩が変成されると、ホルンフェルスという固くて緻密な岩石に、石灰岩は彫刻の石材に使われる大理石になります。
 花崗岩の周りに固くて風化に強いホルンフェルスができると、化学的変化によってボロボロになりやすい花崗岩地帯とで、侵食の受け具合に差ができます。これは岩手山山頂から眺めた鳥瞰図です。姫神花崗岩体でも盛岡花崗岩体でも、花崗岩地帯が馬蹄形状に低地となっていて、地形がこのように地質によって左右されていることが分かります。

【激しい変動の時代から穏やかな時代へ】

 前半では北上山地が北部と南部が別々に出来、激しい白亜紀の変動を迎えた話をしてきました。後半はその後の老後の話です。

山王岩歩道
山王岩歩道

 中生代白亜紀初期の花崗岩形成などの激しい変動の後、穏やかな時代がすぐ訪れます。激しい時代から穏やか時代までわずか数千万年。人間の感覚からすれば長いですけど、地球の歴史からみればあっという間です。その証拠を見ることが出来るのが宮古市の三王岩の遊歩道の途中の崖です。ここでは、白亜紀の花崗岩体の一つである田老花崗岩を「宮古層群」(1億1000万年から2000万年ぐらい前)の礫層が不整合に覆っています。地下数kmでできた花崗岩が侵食されて地表に露出するまでにわずか数千万年という激しい変動があったことになります。宮古層群は白亜紀前期に緩やかに沈降した浅海に堆積した地層です。北上山地は激しい変動の後、穏やかな時代を迎えたわけです。
 この宮古層群という名を皆さんご存知でしょうか。地質の方では非常に有名な地層で、1899年に八重樫七兵衛が日出島海岸で採集した化石の鑑定を小川啄冶(湯川秀樹博士の父親)らに頼んだところ、中生代白亜紀前期のもので、保存が非常に良いということで大騒ぎになったのがこの地層です。田野畑村から宮古市にかけて海岸線に点々と分布しています。

モシリュウ骨格図
モシリュウ骨格図

 ここでの最大の話題は、日本初の恐竜化石モシリュウでしょう。体長20mぐらいだった草食恐竜の左前足の上腕骨の半分といわれています。
 その後、白亜紀の後半から新生代にかけて北上山地は穏やかな時代で、浅い海が出来たり湖が出来たりしました。そこで堆積した地層の中に琥珀がいっぱい含まれている訳です。5千万年から4千万年前には小規模にマグマが上昇して、浄土ヶ浜の白い石(流紋岩)などの小規模の岩脈を作っています。浄土ヶ浜はジオパークの目玉の一つです。
 古第三紀から新第三紀にかけて、北上山地は穏やかな時代で、侵食がどんどん進んで平坦化され、海水面近くまで平らになりました。しかし、侵食に強い一部の場所は残丘として、頭を出したような状態で残っていました。その一つが早池峰山です。海水面付近まで平坦化した状態を「準平原」といいます。
 その北上山地に新たなできごとが起こりました。1500万年ぐらい前までアジア大陸の一部だった日本列島がだんだん大陸から分れて東に移動し、背骨が折られたように変形し、大陸との間に日本海が出来ました。それまでは日本海は無かったのです。そのようにして、日本列島の東側に海溝が出来て、現在と同じ配置になり、太平洋プレートにどんどん押されるようになります。そうしますと北上山地あるいは奥羽山脈は東西からの圧縮力によって、曲隆や逆断層といった変形を生じます。北上山地や奥羽山脈は曲隆の盛り上がっている部分にあたり、現在でも10年間で数mm程度の速さで隆起が続いています。準平原だった地域が隆起すると、その地域が高くなっていきますから、川の侵食力が回復して新しい谷が刻まれていきます。これを地形の若返りといって、若返った地形を「隆起準平原」といいます。現在北上山地はこれに近い形をしています。かつて侵食で出来た平坦面が標高1100m〜1300mのなだらかな尾根として残っていて、早坂峠からその様子が見て取れます。

地形の若返り
地形の若返り

 今からおよそ260万年前からは第四紀といわれる人類の時代です。人類はおよそ700万年前に誕生し、この頃からだんだん数が多くなります。私たちホモサピエンスは20万年前ころ現れました。この時代は別名「氷河期」と呼ばれ、寒くなったり温かくなったりを繰り返した時代です。寒くなると降った雨や雪が融けないで氷河が出来ます。氷河が出来ると海水の量が減り、海水面が最大で140メートルぐらい下がります。今から2万年前ぐらい前が140メートルぐらい低かったといわれる時代です。地球全体が寒くなったり暖かくなったりを繰り返しながら、北上山地は隆起を続けています。たまたま地球が暖かくなって、海水面が徐々に上がっていく速さと隆起の速さが同じだった時代には、海岸線は同じ高さにあり、海岸線が波に削られて平らな面がどんどん出来ていきます。その後、寒冷化して海水面が下がっていくと、陸上に平らな面が残されます。こういうのを海成段丘あるいは海岸段丘といいます。三陸海岸の海岸段丘は八戸市から山田町までの北部ではっきりと見ることができます。洋野町大野や久慈市周辺に広がる丘陵上の平坦面は海岸段丘です。これも一般にいわれている間違いです。
 「三陸海岸南部はリアス海岸ですが、沈降海岸ではありません。」
 陸前高田市や大船渡市にも海岸段丘の平坦面があります。これらの海岸段丘は、今回の津波の復興用地に利用されていますが、段丘面があまり発達していない釜石市や大槌町は用地の確保に苦労しています。

サンゴ・有孔虫
サンゴ・有孔虫

 【カルストについて】

 ここから専門にしている「カルスト」の話をさせていただきます。
 カルストというのは石灰岩が作る独特の地形をいいます。石灰岩は炭酸カルシウウムから出来ていて、サンゴとか有孔虫という生物の殻が固まったものです。石灰岩は雨水に非常に溶けやすく、花崗岩の風化の場合は真砂土が残りますが、石灰岩はイオンになって水に流されてしまうために、跡には空洞しか残りません。
 先ほど北上山地は1500年前ぐらいまで平坦化され、その後、隆起が始まったという話をしましたが、長期間陸地が安定していると、侵食により地表は平坦になり、川は海水面に近い低地を流れるようになります。その後、陸地の隆起もしくは海水面の低下が起こると、河床面は低下します。石灰岩地帯では水流は節理や石灰の純度が高く溶かしやすい所を通って、地下を流れるようになります。さらに陸地の隆起あるいは海水面の低下が続くと、地下水はさらに下を流れるようになり、かつての水路は空洞となり、地表からしみ込んだ水が空洞の天井や壁に鍾乳石を作っていきます。このように、崖に囲まれた平坦面とその地下に洞窟が発達した石灰岩特有の地形をカルストといいます。

石灰石
石灰石

 北上山地の石灰岩ですが、一番広いのは安家石灰石が分布する岩泉・久慈地域です。ここには安家カルストという地形が見られます。その他に、気仙地域、東山地域、大迫から紫波にかけての地域に分布していて、洞窟もたくさん分布しています。現在、岩手県内で洞窟が560本ほど確認されています。これは日本では第2位です。第1位は沖縄県で、第3位は山口県です。岩手県の洞窟の特徴は、やたらに大きいものが多く、ベスト10の中に安家洞をはじめ3本が入っています。
 ここで、洞窟の形成時代について話をします。安家石灰岩の場合、今から2億年前に堆積し大陸に付加した石灰岩が、隆起して侵食されて、今、頭を出している状態です。安家カルストにある龍泉洞や安家洞は2億年前につくられ始めたとしている解説も見受けられますが、それは間違いです。石灰岩が地表に露出してカルストの形成が始まります。石灰岩の堆積は2億年くらい前ですが、安家カルストの形成はそれよりはるか後ということになります。安家カルストの形成が始まった具体的な年代については、700万年〜800万年前ほどではないかと考えています。

安家カルスト
安家カルスト

 安家カルストでは、龍泉洞、安家洞、氷渡洞、内間木洞などの巨大洞窟をはじめ120本ほどの洞窟が確認されています。この地域では、水流が地下にしみ込んで消える沢やその地下水が地表に湧き出す泉が見られます。そのような地下水の流れの中で最も大きなものが龍泉洞水系です。龍泉洞の洞口付近からは平均すると、毎秒1.4立方メートル(=1.4トン)ほどの地下水が湧き出しています。龍泉洞の水源地帯は龍泉洞の北に広がる森林地帯で、集水面積は43平方キロメートル、最も遠い沢水のしみ込み地点までは直線距離でおよそ14キロに及びます。

 【洞穴クイズ】

 それでは最後に、洞窟に関するクイズを出します。気軽に答えてください。

問題1 : 地下水は源流から龍泉洞までどのぐらいの時間で達するでしょうか
(1) 1日、 (2) 1週間、 (3) 1ヶ月、 (4) 1年、 (5) 800年、
問題2 : 龍泉洞から1秒間に湧きだす水量は、灯油のポリタンクでおよそ何個分でしょうか。
(1) 1個、 (2) 25個、 (3) 74個、 (4) 100個、 (5) 250個、
問題3 : 龍泉洞の水に1日で溶かされる石灰岩の重量はどのくらいでしょうか。
(1) 0.9g、 (2) 9g、 (3) 90g、 (4) 900g、 (5) 9kg、
満席の会場
満席の会場

● 会場のもりおか歴史文化館・研修室には柳沢先生が県内の海山で採集した岩石が陳列され、満席の参加者は私たちの住んでいる大地が、いかに長い時間をかけて変化して来たかを学び、熱心にメモを取りながら聞き入っていました。

( 洞穴クイズ正解 : 問題1=1週間、 問題2=75個、 問題3=90g )

【参考】

資料
資料