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第61回・文化サロン 平成26年10月9日(木)

もりおか町家物語館・浜藤ホール

「縄文むら物語」

ゲストスピーカー 高田和徳先生
(一戸町 御所野縄文博物館 館長)
第61回文化サロンチラシ
第61回文化サロンチラシ
高田和徳先生
高田和徳先生

  【プロフィール】
 一戸町出身、高校時代から遺跡調査に携わり明治大学卒業後、岩手県、一戸町職員となり、長年、文化財行政に携わる。県内の遺跡をはじめ、一戸町の蒔前遺跡など町内所在の周知の遺跡の保存・調査を推進。地道な活動がやがて御所野遺跡の発見につながった。

  【主な活動団体】
 北海道・北東北縄文遺跡群世界遺産登録推進会会議委員
 日本考古学協会 会員  日本考古学会 会員
 考古学研究会 会員  岩手考古学会 会員

御所野遺跡復元住居
御所野遺跡復元住居

 縄文人の暮らしに私たちは何を学ぶかー。約4千年前を再現した風景や建物を見ながら物語が始まります。遺跡周辺にはむらの暮らしを支えた植生が今ものこり、物を大切にする縄文人の生活を知ることができます。ユネスコ世界文化遺産登録はもちろん、一戸町では子孫の代まで遺跡を大切に伝える努力を続けています。その先頭に立ってご活躍中の高田和徳先生を、最近オープンしたばかりの「もりおか町家物語館、浜藤ホール」にお招きし、御所野遺跡を発掘調査して解明されてきた様々な謎を、分かりやすく解説して頂きました。

高田和徳先生
高田和徳先生

 【縄文時代がなぜ1万年もの長い間続いたのか】

 いま私たちの基本となっているお米を食べ始めたのは弥生時代からで、それが今まで2千5百年ぐらい続いているんですが、実はそれより前の長い時代が縄文時代です。それはどんな時代かと言いますと、まず農業をやっていない、田圃がない、米がない、畑も有りません。では何を食べていたかと言いますと、木の実とか山菜とか茸とか、それから魚、鳥なんかを獲って食べていた。ですから特別畑を作ってどうこうするとか、あるいは牛を飼ったり、豚を飼ったりするという時代ではなくて、自然界に有るものをそのまま自然から頂いて食べていた時代だった。

 ある考古学者が調べた結果、栗、コナラ、鳥類、魚、貝、根菜類など。割合で言うと植物が67パーセント、動物が33パーセント、意外と肉は食べていない。こんな時代が一万年以上続いていた。日本の文化で一番最初のスタート、これが縄文時代です。ちょうどエジプトのピラミッドが出来た頃もまだこのような生活をしていた。そういう時代だから余計何もない、油もない、そういう貧しい生活をしていたとずうっと思われていた。ところが実はそうではなかったんですね。

 なんでこれが1万年も続いたのかというと、実は日本は世界の中で一番気象的に恵まれた所なんです。海外に行った事が有る人は分かると思うが、海外では水をそのまま飲めないんですね、日本だけなんです、どこに行っても水が豊富に有ってそのまま飲める国は。又食物が豊富に有るから文化が発達した。緑の地帯が日本が飛びぬけている。世界の中でも周りの環境に恵まれている。海に生きている動物の数は日本がダントツに多い、貝、ウニ、イカ、蟹、エビとか食べ物がいっぱいにある場所は、世界の海に比較しても日本がダントツに種類が多い。そう云う事が有るから、昔の人は裕福に生活できた。

 海、川、山、世界にこうゆう風に食べ物が取れる所は無い。すごい事にこれが季節ごとに違うと云うこと。例えば春に採れるもの、夏になってから食べられるもの、秋になるとドングリ、栗が食べられるようになる。冬はマタギなどがやっている狩猟で動物を獲って食べたりする。つまり季節によって食べる物の種類が違っていて、しかもそれが豊富に有る。ここに住んでいたら畑を作る必要がない、田んぼも作る必要がない、こう云う恵まれた場所だから、そう云う風なものを食べながら生活できた。つまり春、夏、秋、冬、日本の四季が豊富な食べ物をどんどん生みだしてくれる。

 そう云うことから考えて、今まで縄文時代は野蛮で、文化が遅れていて何も無いと思われていたが、今日は実はそうじゃないんだと必死に説明するためにお話します。

 私たちは縄文の生活を実験して、体験してみようとやってみて分かった事がいっぱい有ります。

御所野遺跡の鳥瞰図
御所野遺跡の鳥瞰図

 まず一つは縄文時代は寒い時、あるいは物を煮て食べなければならない時、火を使いますね、その為には山に行って薪を取って来なければならない。ところがその薪を取る時も、縄文時代の道具を石で作って実験してみたら、30年も経った木とかはこの道具では切ることが出来ない。それを切って薪なんかできない。ではどのような木を薪にするかというと、だいたい芽が出てから5〜6年ぐらい、あるいは10年もしない木を切るんです。そう言う木は細いから切りやすいし、ちょっと乾燥しておけばすぐ燃えるし、一番使っているのは楢です。つまり1年だけじゃなくて5,6年単位で物事を考えている。あの辺の木は今から5〜6年前に切ったから、そろそろあの辺の木も薪に使えると云う事でそこに行って薪を取る。無くなったらまた次の所に行って取る。という風に場所を変えながら自分たちが使えるものを採る。薪の場合は5〜6年。それよりずうっと長い期間を経てから使うものは例えば家を建てる時、柱などは15年〜20年ぐらいの木は家を建てる時に使うんだと、そういう風に森を全部使い分けている。つまり同じ事を繰り返す。これが縄文時代の基本だと云う事です。

 要は循環する、使い切って全部無くなってしまうと云う事では無く、使っても又出てくる。この繰り返しが出来ていたのです。

 今の社会は違うんですね。皆さんも多分おわかりでしょうが、石油を使ってますよね、石油は無くなるんですよ、今はかろうじて化石燃料がまだ有るから、それによって暖かい生活をしているだけなんです。未来永劫(えいごう)に続くと思ったら大間違い、かならず無くなってしまう。それに対して縄文の山で自然の物を使うという事は、繰り返し使える。だから何万年経とうが又生えてくるから化石燃料とは違うんです。こういう事が現代と縄文時代との違いだと私は思っています。つまり繰り返す、循環する、そういう生活を早く元に戻さないといずれはなにも無くなってしまい、大変な事になってしまう。もう一つは自然の中で薪を切ったり、動物を獲ったりしているけどそんな中全てに魂が宿っていると思っていたようです。

ほぼ満席の会場
ほぼ満席の会場

 盛んに儀式をやっている。何でこんな無駄な事をやっているんだろうと思う事がいっぱい有る。アミニズムと書いて、つまり山とか木とかそれぞれ全部に精神、魂が宿っていると思っている。ですから、わざわざ木を切ったらそれに対して感謝するための儀式をやっている。そういう形跡が出て来ます。自分たちが自然から得たものに対して自然に帰してやるんだ、そういう風な考え方が非常に強かった。それで1万年も続いたんだなと思います。

 世界で一つの文化がこんなに長く続いた例はそう無いですね。そういう意味で縄文時代は私たちの原点として見直そうと思っています。縄文時代は今の時代と全く違うけれど、考え方として今ではあまり触れる事の無い自然の中からいろんなものを頂いて、それを自然に帰してやる、そういう感謝の心みたいな事を培った。それが日本人の基本的な考え方、基礎になったのではないかと思う。

【縄文時代はどんな時代だったか】

 縄文時代というのは北海道から沖縄まで全部に有ります。その中で縄文時代が一番盛んだったのは北海道から岩手、長野とか岐阜、その辺まで、だいたい東日本が中心地、何故かと云うと遺跡の数が圧倒的に多い。色んなものが沢山出てくる。計算していくと人口が明らかにこっちの方が多い、東日本の方が縄文の中心地だった。その中でも当時は今の岩手、秋田、青森など県単位よりもっと広いぐらいの文化圏というか、お互いお付き合いというかそういう範囲が決まっていまして、4千年から4千5百年ぐらい前の話をしていますが、その頃の文化は、北海道が一つ、それから東北の北と北海道の南が一つ、福島あたり、それから関東、東京あたり、そして長野あたり、西日本、九州と全部で七つの文化圏が有った。その中でも北東北から北海道、津軽海峡が有るのに、ここが一つの文化圏になるのかと思いますよね、このくらいの海は逆に陸よりずっと便利で動きやすい、これは船を使います。下北半島の大間あたりから函館に行き来が凄く盛んですからまったく同じ文化圏なんです。これが7つある内でも飛びぬけて中心地、つまり岩手県、青森県、秋田県、北海道の南、これが縄文時代の本当の中心地であると思って間違いない、人も沢山居てそう云う場所であった。

【縄文時代の物作り】

縄文の編み物と一致
縄文の編み物と一致

 縄文時代の人がこんなものを作っていたんだとビックリするような物をご紹介します。おそらく考えたこともないことだと思いますが1つは編み物です。

 9千年前の縄文遺跡から出てきたもので、大きさ80センチぐらい、これは木の実を入れるために作った篭なんです。これにぎっしり木の実を入れて、水が湧いている所に穴を掘って入れて貯蔵していた。こうしておくと何時でも食べられる、その為にこの編み物を編んだのですね。これを復元しようと一戸町の竹細工の職人に依頼。材料は蔓(つる)を使って作る。しかし木に巻き付いた蔓は曲がりくねっており作業が困難でした。真っ直ぐの蔓を得るためには周囲を手入れしなければなりません。それだけ篭を1つ取っても昔の人は2年物、3年物を使い分けそれを合わせて編んでおり、その高度な技術に感心していました。

 御所野遺跡で調査した土器のカケラの底に編んだ跡が有ります。土器を作る時に必ず下に敷物を敷くんです。この上に粘土を置いて作るんですね、その際土器の底に残った紋様の型を取って調べた結果、今一戸町でやっている竹細工と同じ竹を使っていた事が分かりました。

【縄文時代の漆の役割】

 漆は中国から木と一緒に伝わってきたと云われているが、一番古い漆は実は日本に有った。日本で一番古いといわれる漆器が北海道の函館のお墓から出た。亡くなった方に肩とか腕、足に漆で塗った布を着せている事が分かった。その漆の部分だけ残ってあとは腐ってしまった。なにしろ9千年前の事ですから。調べてみると編むための一本一本の糸に漆を塗っている。それを編んで布を作っている。一番古い日本の漆というのは布に塗ったんではなく、糸に塗ってそれを編んで布を作った。漆といえば私たちは入れ物、お皿とかお椀などに塗ったのが漆だと思うんですが、最初はそういうことには使っていない。誰か身近な人が亡くなった時その人を送る為に漆を使っていた。漆をお椀とかお皿に塗るようになるのは今から6千年から7千年前ぐらいになって初めて行われる。だからもっと古い時代は特別に何か目的が有って、そういう時にしか絶対漆は使っていません。

縄文の技術・石器
縄文の技術・石器

【縄文時代の物流】

 縄文時代、物はその辺に有る自然の物をそのまま使って生活していたと思いがちだが、決してそうじゃない。遠くの物がいっぱい入ってくる。蛇の目石(弓矢の矢の先につけるもの)これは大半は秋田の方から仕入れている。しかし矢の先の石は全部秋田の方から入っていたと思っていたが、最近珪化木の物が発掘された。これは一戸町内に有る珪化木から採った化石を使っている事が最近になって分かった。よく調べれば遠くから仕入れたものや、身近に有るものを利用した物が交りあって道具が作られている。そんな技術を持っていたと云う事を心に留めておいてほしい。

【縄文時代の人々の心について】

 村の中では一番真ん中にお墓を作っている。その周りを堅く固めそして石をいっぱい並べていて、石自体が焼けている。つまりお墓の周辺で頻繁に火をたいている。しかも堅く固められていますから、そこに集まって何かお祭りの様な事をやっている。この下に居るのが自分たちの先祖です。つまり亡くなった方と一体となって生活している。亡くなった方も含めてこれが一つの村なんだと云う風に考える。

墓の配石遺構
墓の配石遺構

 そういう事が有るから先に言ったように漆を使って色んな物を亡くなった人に贈った。
そして、お墓を作る時、土をきれいに削ってその土を盛った高い所も火を燃やした跡がいっぱい有って、ここを掘るとこの村で使った人たちの物が沢山出てくる。橡(とち)の実とかその他に動物の骨、鹿とか猪、自分たちが食べる木の実、これも炭になってまとまって出てくる。なんで自分たちが食べる食料を燃やすかと考えますね。

 お墓の上に石を並べ目印とし、全部平らに削っているが、その中でも大きな石が有る。
村と向かいの山(茂谷山)との間には馬淵川がある。この山に丸い穴が有るがこれが実は石の産地で、この近くでは他には無い花崗岩というゴマ石です。川を越えて運んで来ている。1メートル近くあり墓の目印とした。ここに住んでいる人にとって、この山は非常に大事な山で「魂のよりどころ」となる信仰の聖なる山だった。ここで儀式が行われる。つまり自分たちが自然から頂いたものを火を燃やして帰してやる、言う風な感謝の気持、自分たちが手に入れた物を消費したらそれを又自然に帰してやる。そういう意識が非常に強かった。

【住居の再現】

 浄法寺町の人達が山に行って木を切って来て家を建てる。この家を125軒全員調べたんですが、全部栗材を使っている。栗を徹底して使う、栗は長持ちする。いくら土の中に埋めてもなかなか腐れない。そういう事を縄文の人達はすでに知っていた。

竪穴住居の火災実験
竪穴住居の火災実験

 縄文時代の住居の中で、屋根に土を載せた事を全国で初めて確認した。これは焼けた家を調査した事によって分かった。土を載せる事によって、冬は暖かいし、夏は涼しい。自然の物を徹底して使っているのが縄文時代の人たち。私等は発掘するだけでなくて、検証するために色んな実験をやっています。篭を作ったり土器を作ったり色んな事をしている。

 焼けた家を2年間調べて、家の中の温度や湿度などの記録を取った後、「火事にしてみよう」と火をつけた。その結果土を被っているから殆んど燃えない事が分かった。

 燃えた家が御所野遺跡からは沢山出てくるが、それは間違って火事を起こしたと云うのではなく、最初から家を焼こうと云う事で焼いている。なんで家を焼こうとしたのか。実はアイヌの風習の中に、例えばそこの家で家長のような偉い人が亡くなった時、亡くなった人を一緒に置いて火をつける。これは何故かと云うと亡くなった人があの世に行った時に住めるよう家を持たせようと云う意識なんですね。

【縄文文化圏と弥生文化圏が逆転したのは・・】

 縄文時代後期になると中国から文化が上陸し、どんどん北の方に来た。北の一番奥じゃないですか北海道まで。だからこの辺は弥生文化の到来が一番遅れた場所なんです。そして当然米作りも遅れた訳ですね。米作りのための条件がそろっていない訳ですから。むしろ米じゃない方が地方に事情に合っていた。強引に米作りしちゃうと合わない事をやる訳だから。だから文化的にも遅れたと云われた。実はこういうことなんです。弥生時代以降の新しい時代は、書き物がいっぱいある。歴史を勉強するのに一つは書き物、文字、もう一つは土の中に有るもの。その中の書き物が中国から(南の方)に入って来て、書き物の無いこちら(北)は文化の無い場所と言われた。ところが土の中を掘ってみると、土から色んな物が出てきた。それはもしかして違うんじゃないか。たまたま文字に書かれた物が有ったからこっち(南)の方が文化的に優れていたと言われた。つまり文化は西から来ていてどんどん伝わって来た。だから岩手の場合も青森も秋田も含めて、東北の北部はエゾの住む場所だ、蝦夷の場所だとまるで人種が違うみたいに言われたりしたが、「文化の違いなんだ」と考えられるようになった。

日本の歴史の変遷
日本の歴史の変遷

 縄文文化という何にもない時代の事を土の中に残っていたからそれによってこういう考えができる。昔から縄文の人達のメッセージだと。それはやっぱり大事にしないと。文字が書かれた事が全くない場所ですから、それを世界遺産にしようと盛んに進めている。

 こう云う形で世界遺産にするような価値が有るし、そうゆうことをもっとちゃんと調べて、日本もそうだしさらに世界の方にもいろいろ説明をしていかねばならない。

 循環する生活、使い切って食いつぶしたり、使い切ったら終わりという社会じゃなく新たに次に繋がるような、継続すると云うか、循環というか、そういう社会に変えていかなければならない。最近エネルギー問題でよく太陽エネルギーとか、木質バイオマスとかいろいろ有りますよね。それは本当に良い方向で、新たな方向で社会が動き出したなと非常に強く感じます。

 歴史を勉強するというのは昔の事を地理的に良かった、昔はこうだったっていう事ではなく、現代の社会、それから未来へ繋げるように、それが歴史を勉強する中に有るんだと云う事を心の片隅に置いて頂ければなあ、そういう風に考えると楽しい、社会とのつながりを持てる形で研究して、これが日本に有る18の世界遺産の中で、当初の目標より2〜3年遅れているが、時間がかかるけど間違いなく世界遺産になると思う。

 情報的な考えというものが世界の人類にとって、将来的にプラスになると思う。何事にも自己本位という事で無くて、世界に貢献できると私はそう思っています。

御所野遺跡を世界遺産に
御所野遺跡を世界遺産に

 平泉は世界遺産になりましたよね。平泉も実はただ単に外国から来た仏教がそのままあそこに定着したから、仏教文化として世界遺産になったと言うだけではない。仏教も日本に入って来た時からどんどん変わっている。一番変わっているのは今日私が話したように、自然との関わり、浄土庭園、浄土思想、あれは実は自然を取り入れた考え方と、仏教が融合した事で平泉の独特な仏教文化ができた。つまり平泉にとっても縄文的な考え方、私たちの地域の縄文の考え方、環境が基礎になっている。その証拠に秀衡という人が居ますね、無量光院に殺生図、狩猟の図を飾っている。それは秀衡が云うには「私たちは動物を殺したくない、でもそれを殺すことによって私たちも生きて来たんだ」これをずうっと伝統的にそうしてきた。つまり縄文的考え方なんだけども、そういう事を平泉の指導者はちゃんと分かっていた。そういうことで新たに(平泉ならではの)仏教文化を作った。そういう事で世界遺産に評価された。これも縄文が基本になっている。もう一回基本となる社会を見直す必要があると思います。
「持続する循環型社会」これが縄文文化の一番のキーワードです。

講演内容を要約して掲載しました。(聞き書き 熊谷正敏)