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第60回記念「文化サロン・講演会」


平成26年5月22日(木) 会場 もりおか歴史文化館・盛岡城址公園
第1部  もりおか歴史文化館見学
第2部  講演会 「南部家八百年の歴史を想う」講師 下山 寛先生
第3部  盛岡城址「石垣」ウオッチング

第60回文化サロンのポスター
第60回文化サロンのポスター

【講演】「南部家八百年の歴史を想う」 下山 寛先生

(元「旧盛岡藩士桑田」理事長)

下山寛先生
下山 寛先生

プロフィール
盛岡市出身。会社勤めのかたわら歴史探訪を趣味とし、独学で歴史探究を極める。
長年にわたる南部藩史調査により、祖先たちの声なき声を、現代の若者たちに話して聞かせる「語り部」を我が務めと自認。定年退職後、理事長に就任すると全国各地の桑田支部勉強会、歴史講演会で講師を務め、足で集めた貴重な史料と豊富な話題で聴衆を魅了する。

 下山先生は前段で旧盛岡藩士桑田の現状と、盛岡を研究する上で現在の住居表示では不便で、旧町名の復活を呼びかけて行くと話した後、自ら制作されたスライドをテンポイントで操作しながら「語り部」を自認するだけに、時にユーモアを交えた盛岡弁で分かりやすく話してくれました。

南部家800年の歴史
南部家800年の歴史

 南部氏の起り

 平安時代850年代、清和天皇が居りまして、天皇の息子貞純親王の子供、つまり清和天皇の孫にあたる経基という人が朝廷から「源」の姓を賜り臣籍降下、皇籍離脱し臣民になった。これが源経基、ここから源氏が始まっている。
 経基の五代目、新羅三郎義光という人がいて、義光の子遠光の三男が南部藩初代の三郎光行公です。この人が源頼朝に仕えて手柄を立て、甲斐の国現在の山梨県の南の端南部郷に領地を与えられた。つまり光行公は清和天皇と血が繋がっている訳です。

南部氏の起り
南部氏の起り

 この系図の中には源頼義、義光、義家そして武田信玄も名を連ねている。
 源頼朝と光行公は親せき同士で年代も同じくらいで、青森の三戸を拝領しましたが、統治は子供に任せて、自分は鎌倉で頼朝に仕えていた方が多かったようです。このことは「吾妻鏡」にも記されている。
 源頼義が前九年の役で、安倍貞任を倒した。義家は後三年の役で秋田の清原一族を倒している。この義家は有名な八幡太郎義家です。頼朝は平泉の藤原一族を倒した。こういう繋がりが有る訳です。このほかに臣籍降下して有名な大族は「平家」です。平家は壇ノ浦で頼朝に討伐され滅びた訳で、このようにして頼朝は力をつけ、鎌倉幕府を作った訳です。

 三戸南部と根城南部の関係

 南北朝時代に三戸南部と根城南部が有って、三戸が北朝に就いて根城南部は南朝に就いた。北朝の方が力が強くて南朝は滅亡のような格好になって、北朝に就いた三戸南部が今まで続いてきた。根城南部はこの時衰退し、完全につぶれた。しかし親せき同志だから三戸南部の方で俺たちと一緒にやろうと云う事で、一旦山梨に帰っていたが戻って来て根城に城を構え生き延びた。これは南北朝時代の末ころ、そして鎌倉時代の初めごろ根城南部は三戸南部の分家扱いでお家存続が許可になった。根城南部の復活、八戸南部とも云う。この根城南部が江戸時代に伊達藩との境界が接する為に、三戸南部から伊達藩との藩境を固めてくれと命令され、遠野に移り遠野南部になった。これが一応の南部藩の流れでした。

熱心に聞き入る参加者
熱心に聞き入る参加者

 幕末の話をすると一万石以上の大名は274家有りましたが、天皇家の血筋で続いている大名の、藩が続いているのは南部藩だけなんです。八幡太郎義家とか源頼朝との血縁が有る藩なのだ。多くの藩は残っているが、藩として存続していても、殿様、城主は信長とか秀吉、家康の時代の国替えでしょっちゅう変わっている。一家系で同じ場所で存続した藩は南部藩と九州の島津藩だけである。

 南部藩のルーツ甲斐の国って・・・

 甲斐の国南部領ってどういう所か。山梨県の一番南側で静岡のすぐ隣。今も南部町という町が有ります。南部町は昔から馬の産地だったそうです。南部藩の馬が優秀な訳ですね。富士川の流域にある小さな町で、いまでも南部氏の舘跡や、深くて七尺四方の井戸が残っており、昔光行公達が使った井戸なそうです。町の両側は絶壁で町から富士山は見えないが、白鳥山公園に上ると富士山が見える。南部氏が盛岡に岩手山が同じように見える所を選んだのかなあと思う。

 頼朝の藤原氏討伐で勲功

講演中の下山先生
講演中の下山先生

 鎌倉時代に入って、頼朝が木曽義仲を滅ぼして1183年、次に平家に手を架けた。平家を滅ぼすために。一の谷、屋島、壇ノ浦で平家の末路が決定的になって、頼朝が力を蓄え、そして鎌倉幕府を作った。そして次の狙いが平泉の藤原氏なのです。
 頼朝は義経をかばっている理由で、あれは理由付けしただけで、本当は藤原一族が力を蓄えており邪魔になって討伐した訳ですよね。その時に南部三郎光行も仕え、手柄を立てたことに対して、今の青森県三戸郡のあたり「糠部」を与える。与えると云うより北の方を守ってくれという話だと思うが、その時に光行公が頼朝から青森の三戸近辺の糠部を拝領している。これが甲斐の国から青森そして盛岡に来た南部さんの始まりです。

南部町に残る利直公の御霊屋
南部町に残る利直公の御霊屋

 起因したのは平泉を討伐した功績が入っている。
 鎌倉の由比ケ浜から八戸浦、今の種差海岸、ここで上陸して、最初に城をかまえたのが平良ヶ崎城で、ここに360年ぐらい居た。(三戸城に居たのは50年ぐらい)南部藩最初の築城ですね。平良ヶ崎城は南部発祥の城、鎌倉時代から室町時代1191年頃から1557年頃までここに住んでいました。今も残っています。
 ここに盛岡南部の初代の信直公の墓や、利直公の御霊屋も有ります。

 初代光行公の墓石が盛岡の聖寿寺に有る謎に迫る

 盛岡の聖寿寺の一番てっぺんに初代光行公の墓が有ります。しかしこれはもともとここに有ったのではなく400年もの間土の中に埋もれていました。
鎌倉時代の光行公の墓が江戸時代の盛岡のお寺に有ることに疑問を持っていた。(初代だから南部町に有るべきじゃないのか)そんな時ある本を読んだ。そこには短くこのような記事が載っていた。
 当家 聖寿寺には大正時代に鎌倉で調査、発見された南部氏の始祖 光行、祐政、信長、政行、四代の墓と伝えられる五輪の塔四基が当墓所に保存されている。

参加者で満席の会場
参加者で満席の会場

 これにまつわる、新聞記事がないかと県立図書館や岩手日報本社を訪ねたが、マイクロフィルムの保存状態が良くなく明快な答えは得られなかった。その後国会図書館に行ってみると岩手日報の新聞記事が良く整理されていて、マイクロフィルムを全部見た。そこで大正10年11月11日の紙面に次のような記事を見つけた。
 本日墓前祭執行 神奈川県鎌倉町極楽寺上町なる五木田倉吉さんの畑地内で発見した南部藩祖光行公の古墳は、旧桜山 聖寿寺が改装が終わったので、いよいよ本日十時墓前祭を執行し、これがため伯爵(南部さん)夫妻が昨夜列車にて帰省され準備万端整えられた。

標識に有った五木田邸の位置
標識に有った五木田邸の位置

 これで何処でどのように発掘されたかが大体目星がついてきた。今は鎌倉市ですけど極楽寺上町にある五木田さんを探せば解るんじゃないかと探しました。しかし極楽寺町は急峻な坂道の連続で、探しに探したが一回目は見つからず、泊って再挑戦したが分からず、あきらめて帰ろうと思った。そうしたら道端に標識が有った。極楽寺二丁目F地区急傾斜地崩壊危険地域と書いてある。この中の地図に五木田さんの表示が有ったんです。2日かけても見つからなかったものが目の前にあったんです。
 五木田さん宅を訪ねてみると、おばあちゃんが出てきて「昔ここに西方寺というお寺が有ったけど、廃寺となり畑にしていた。戦後は宅地として分譲しました。しかし裏山には未だ古い五輪の塔の墓石が古墳として残っており、調べに来る人がいました。
 五木田倉吉さんは私の祖父です。西方寺跡を倉吉さんが畑を耕作中に発掘されました。」

五木田邸で発見された墓石
五木田邸で発見された墓石

 鎌倉市教育委員会から聞いたところによると、明応大地震、1498年鎌倉大仏の所まで津波が押し寄せ、大仏も破損したそうです。その時あの急峻な極楽寺だから、山崩れでお寺の墓石が埋まったのではないかということでした。
 五木田さんの屋敷は西方寺というお寺の有ったところです。
当時鎌倉町の依頼を受けて考古学の第一人者、京都大学の教授梅原さんが鑑定したところ鎌倉時代の南部三郎光行公の墓石である事が分かった。その他三基の墓石も発掘された。

光行公の墓石
光行公の墓石

 そして当時の総理大臣の原敬がその時自分のお金を出して墓石を盛岡の聖寿寺に移してくれたそうです。そして原敬は墓前祭を決定した。それが今聖寿寺の一番高い所に置いてある墓石四基である。あれは原敬が鎌倉からお金を出して移してくれた墓石だそうです。五木田倉吉さんの所で発見して埋葬し、そして原敬は墓前祭を決定した。原敬は時の総理大臣だから多分来れないと思いますが、ここまで段取りした訳です。

墓前祭と原敬の葬儀が同じ紙面に
墓前祭と原敬の葬儀が同じ紙面に

 大正10年11月11日の記事、ここに墓前祭執行、五木田倉吉の所で発見して、そして聖寿寺に埋葬して墓前祭を行いますと云う記事です・原敬自ら光行公の墓石を移し墓前祭を決めた。自分は来れなくても、先ず南部さんの為だから一生懸命やろうと思ってお金を出して移した訳です。

参加者から拍手が・・・
参加者から拍手が ・ ・ ・

 ところが、隣のこの記事、原敬葬儀の記事なんですね。その10日ほど前に東京駅で暴徒に刺されて亡くなった。その墓前祭と原敬の葬式の日が同じなの。こんな事って有りますか?11月4日東京駅で亡くなっている。葬儀の日時と墓前祭の日時が同じなんです。
 いわくが有る訳ですよ、南部藩士の血筋を引く原敬が南部さんを想う心 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
(会場内に拍手わく)

第3部 盛岡城址・石垣ウオッチング

案内役 神山仁氏(日本城郭史学会委員)

 講演後は盛岡城址を散策しながら、石垣をウオッチングしようという企画。案内役は川口印刷勤務のかたわら、日本城郭史学会委員の神山仁氏が担当。
 神山氏は「盛岡城は平山城で、岩山の上に築かれた城。花崗岩の石を掘り出し、割って重ねて積んだ石垣。東北の城よりは近畿の城に近い。大阪や京都のあたりの城と遜色ない。石垣の石を他地域から運ぶ必要が無く、現地で調達できたからこのような石垣が出来た。しかも関西のお城の石垣に比べ非常に石が堅く今後も長持ちするだろう」と述べた。またいろんな地区から有能な石工が集められそれぞれの区域で優秀な技術が駆使されているが、「家伝」を大切にし、図面とか文書を残さない世界で、石垣の構造を研究する人に大きな壁となっていることも事実と話していました。
 この後は「石垣ウオッチング」の様子をカメラスケッチでお届けする。

もりおか歴史文化館前から出発
もりおか歴史文化館前から出発
参加者を前に解説する神山氏
参加者を前に解説する神山氏
盛岡城址を巡る参加者
盛岡城址を巡る参加者
精巧に組まれている石垣
精巧に組まれている石垣
ハンドスピーカーで名解説
ハンドスピーカーで名解説
天守閣跡を見学
天守閣跡を見学
石垣の魅力をタップリと
石垣の魅力をタップリと
熱心に聞き入る参加者
熱心に聞き入る参加者
新緑の城址を歩く
新緑の城址を歩く
石垣の高さを実感
石垣の高さを実感
好評だった石垣ウオッチング
好評だった石垣ウオッチング

 今回の企画は3部構成とあって、参加希望者が多いのではと予想し、事前に電話予約で募集することにしました。応募状況は予想通りで、もりおか歴史文化館の研修室の定員70名が満杯となる盛況でした。今後も皆様から寄せられたアンケートを基に魅力的な「文化サロン」の開催を目指して参ります。

(文責 熊谷正敏 カメラ 宮野貞雄)