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第五回文化サロン 「アテルイの謎に迫る〜史書の余白から〜」 2005年5月19日

ゲストスピーカー:宮野 英夫氏           
  
プロフィール
昭和6年生まれ
盛岡一高を経て
東北大学文学部卒業
読売新聞記者となり、
盛岡、前橋、浦和支局長などを
歴任し退職。

現在日新堂顧問・えみし学会会員
読売新聞社社友

著書
「岩手の謎十話(上)」
随筆集「水車のある風景」
「えみし風聞」 など
  
    

熊谷印刷から出版された2版『えみし風聞 史書の余白から』について話す佐藤氏。

 アテルイは阿弖流為と書かれますが
 「」という字は、弓を作る人という
 意味です。
 また「」という字は、死んだ人に
 弓をかぶせて弔ったことからきた文字
 です。
 「」は戦いで多くの人が亡くなり
 弓をたくさんの人にかぶせ弔ってその
 そばに立つ人が佛というわけです。
 
 「」は陸奥をばかにしている言葉
 と思いがちですが、実は弓と大
 重なった文字で弓の名手のことと考えますと ばかにした言葉では無いとも言えるのではないでしょうか。

また史書にはないことですが、水軍との戦いもあったのではないかということや胆沢城、志波城、徳丹城について遺物からの推論等も語られました。
最後にアテルイと悪路王を同一視してはいけないと強く話されました。
ここに記したことは語られた内容のほんの一部です。
詳しくは歴史小説でもある「えみし風聞」をお読み下さい。 
    
文士の風貌の宮野氏は、「謎に迫るまでとはいきませんが」と静かに語り始めました。

アテルイの時代を読み解くのには「六国史の続日本紀」と「類聚國史」「日本紀略」などのわずかな資料しかありません。

陸奥では現在まで中央と戦って勝利したのはアテルイだけなのです。
続日本紀、延暦8年(789年)胆沢の蝦夷の頭領としてはじめて登場。大和遠征軍五万の大軍を散々に翻弄したことが行間から読みとれます。

その後、日本紀略、延暦21年≪夷大墓公阿弖流為、磐具公母禮等種類五百余人を率いて降る≫とあります。
田村麻呂が武力路線でなく水田開発や養蚕の技術などに力を入れたことで、争いを好まず陸奥の安泰を願うアテルイとの間に信頼関係が生まれ帰順の決意にいたったのでしょう。

桓武帝に拝謁するためと都へのぼったはずが、一転して、日本紀略≪夷大墓公阿弖流為、磐具公母禮等を斬る≫とあるように虜囚として河内国杜山にて斬られたのです。

わずかな史書の余白からアテルイを、アテルイの生きた時代を想像するしかありません。
我々は、えみしの勇者阿弖流為に敗者の美学、哀惜の念を感じ、義経と同じように不遇の英雄を称えたくなるのでしょう。

宮野氏の語る言葉から見識の深さと東北の地に生まれた者としての郷土への深い愛を感じました。
      (写真・記:小泉正美)


田村麻呂創建の清水寺の一角に碑が建立されていました。一昨年の京都の旅にて(小泉)