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第59回「文化サロン・講演会」


盛岡町家と鉈屋町の歴史まちづくり

ゲストスピーカー 渡辺敏男先生
(有限会社(盛岡)設計同人 代表取締役)
第59回文化サロンのポスター
第59回文化サロンのポスター
プロフィール
 東京都杉並区方南町に生まれる
昭和48年
武蔵野美術大学造形学部建設学科卒業
井上工業株式会社設計部入社
昭和51年
株式会社駒田智彦総合計画事務所入社
昭和55年
有限会社(盛岡)設計同人設立、
代表取締役
平成 2年
岩手大学教育学部芸術文化課程造形学科講師
【主な現職】
岩手県建築審査会会長
岩手県都市計画審議会委員
盛岡市景観審議会委員
【主な活動団体】
盛岡まち並み塾事務局長
盛岡まち並み研究会事務局長
渡辺敏男先生
渡辺敏男先生

 平成以降、城下町・盛岡の面影を伝える町並みはめっきり少なくなってきました。
 しかしその一方で、旧町名を伝える活動や市内に点在する文化財を訪ね歩くイベントが人気を集め、新しい観光のスタイルとして定着しています。
 今回の「文化サロン」は鉈屋町を中心に盛岡町家の調査を進め、同時に失われようとする町並みや町家の保存に取り組む「まちづくり」について、この活動の中心的役割を担っていらっしゃる渡辺敏男先生にお話し頂きました。

ほぼ満席の会場
ほぼ満席の会場

 前半部分はおもに町家の歴史や成り立ちについて、スライド上映しながらの説明で、文章にしにくい事も有り、渡辺先生の許可を得て盛岡市街並み保存活用推進協議会発行のガイドブック「町家暮らし物語」の一部分を転載させて頂く事にしました。

盛岡町家の外観の特徴

 盛岡の町家は、柱立ての下屋付きで、道路と並行に屋根の棟を持つ平入り(ひらいり)がほとんどです。この下屋は、青森県、秋田県仙北郡にみられる「こみせ」(木造アーケード)が変化し、それぞれの家専用の内土間に変わったものです。「こみせ」の分布は、津軽藩が独立前の南部領の範囲と重なります。ちなみに新潟地方では「雁木」と呼んでいます。一方、県南の旧伊達藩の町家は違った特徴を持ちます。

 店じまいの戸締りは内側の蔀戸(しとみ戸)、大戸(潜戸付きの戸)で仕切られます。このため、専用になっても外部的に残ってきました。その後明治後半にガラスが入り、道路側にガラス戸が建ち、ほとんどが内部化され、現在の姿になりました。

鉈屋町の町家
鉈屋町の町家

 また、町家は隣家と空き地がほとんどありませんが、それぞれ戸建て独立して建設されています。明治以降の近代化、身分の自由化を背景にだんだん背が高くなり、贅を尽くす町家もつくられます。江戸時代に近い古いタイプは背が低く、表2階のみという特徴があります。屋根の重なり具合で、高い方が新しい建築と見て良いようです。

 関西の町家と比較してみると、下屋は柱を持たず、母屋から突き出す形式で、母屋の総2階が強調されます。盛岡町家は下屋が通りに面し、母屋が引く形になります。

神棚のある常居
神棚のある常居

内部の特徴

 町家の構えは、表通りから母屋、坪庭、土蔵と並びます。そして、表から裏まで通り土間が通り、土足で奥まで行けます。盛岡では、昔は「ロジ}と言いました。子供たちの遊び場にもなり、荷を奥の土蔵に入れるためや汚物の汲み取りの通路に利用されてきました。この配置は、近世以降の全国の町家でほぼ同じです。

常居の吹抜けと神棚
常居の吹抜けと神棚

 盛岡の町家の特徴は、母屋の「見世(ミセ)」に続く中の間、「常居(ジョイ)」にあります。この部屋は主人の仕事場で、家の中心として神座を兼ね、立派な神棚があり、基本的に二階をのせません。天井もない吹き抜けにして、屋根を支える木組みを見せる空間にします。地元では「主人を足げにしない」「出世を妨げない」ためと言われています。常居に続いて食堂にあたる「台所(ダイドコ)、または「座敷」となり、この前か奥の通り土間に水揚、かまどを設けます。

昭和の町家の間取り
昭和の町家の間取り

 二つ目の特徴で、常居は、表(店)と裏(家)に空間を二分し、表の2階は古くは店の雇人の部屋、臨時の宿、倉庫等に利用され、昭和に入ると客用座敷に改造される町家が多くなります。明治以降の町家に見られる奥に会を持つ場合は、女衆の部屋などに利用されてきたようです。つまり、常居は、家を私的、公的空間に分ける役割を持っています。

 三つ目は、神棚は南向き、東向きを基本とし、通り土間はこれに反対する位置に作られます。これは、街区のなかで、各町家の通り土間と居室が交互に並び、木造の薄い壁で接する家境でもプライバシーが保てる、都市に住まうルールのようになっています。

講演後半部分(要約)

現在の仙北町
現在の仙北町

盛岡まち並み塾はどのような活動をして来たか

 平成15年当時、盛岡駅から不来方橋、馬町、鉈屋町を通ってバイパスに抜ける都市計画道路が既に着工されていました。この道路幅は27mということで、現在の鉈屋町の道路は5〜6メートルですから、均等に左右10m、10m取っていきますと母屋がほとんど残らないと一緒です。

 仙北町は27m道路ですから何も残らない。こういうのを目の当たりにしながら、もう工事は着工している。盛岡の400近い町家をなんとかできないかなあと思った時期でした。そんな時期、鉈屋町の会合に呼ばれ「ちょっと渡辺さんお話を聞かせて下さい」と言うんで、ちょうど10年前の12月クリスマスのあたりに周辺の人達15人ぐらいが集まって勉強を始めたのが、町並み塾の出発です。

現在の鉈屋町の町並み
現在の鉈屋町の町並み

 その時皆さんと話したのは、今町家と言う話をしてもこれが文化財とか大事な所だよとかなかなか伝わりにくい、ましてや道路が厭だから残そうと言うためには、よほどの地域の応援がないと、道路を止めるなんて通常考えられない話で、まだ全国でも1か所か2か所ぐらいしか無いんですね。都市計画道路を廃止するという事は。そこで道路の話は止めようと、多分町内でも半々になってしまうから・・・半分ぐらいの人は俺の土地を買って欲しいと言う人も出てくるし、間違いなく町内対決を生んじゃうから。大事なのは皆がお持ちの町家を残すべきか、残さざるべきか、そういう議論の方が分かりやすいんじゃないかと。その後鉈屋町ではこの広い道路反対とか、そうゆう議論は避けてきたというんです。その事が目的ではなくて、この鉈屋町に割合と集中的に興ったこの町家で暮らす文化、それをどうやったら残せるかと、そうゆう議論をしましょうと。

北上川対岸から御蔵を望む
北上川対岸から御蔵を望む

 当時のこの界隈は町家も当然ありますし、寺の下寺院が有って、お寺さんが沢山有る。それから北上川河畔に御蔵があり、江戸にお米が行ったり、帰り便が帰ってきたりいわゆる川港、新山河岸が明治橋の下流にあります。そこで荷を下ろしてやり取りし、地方文化と繋がるという三つの川筋、町筋、寺筋それがちょうど平行に並んでいて、ちょうど真ん中が街道筋であり大槌街道、宮古街道になります。ですから東と南の入り口の役割を果たしていましたし、ちょうど御蔵の前が新山河岸という川港で、ここから物は全部運ばれている。いわゆる川の時代と云うんですか、鉄道の前の時代は、実は川の時代なんですね。川を使って物を動かす、石なんかもそうなんです。川があるから持って来れるんですね。それを荷車に積んでたら、よほど近距離じゃないと無理な訳で、例えば盛岡城の石垣に積まれている御影石を運ぶ時も川が利用されています。

御蔵下町資料館
御蔵下町資料館

 「岩手川」の一番新しい酒蔵は、塩釜石を使っているんですね。塩釜石は大谷石に似ていて軽くて耐火性能が良くて、土蔵を作るには丁度いい。「岩手川」にはそういう石が使われており、それはまさに北上川を上って来て及ぼした、そうゆう川の時代が鉄道の時代の前に有ったと云う事が忘れられている。大動脈とは街道じゃないんです、そうゆう沢山のものが運べませんから川が非常に重要だった時代です。それの入り口に当たるのが、鉈屋町、旧町名でいえば川原町です。そう云う場所、立地だったと云えます。実はここに町家が並んでくるのは江戸時代の終わりから明治にかけてです。

江戸後期の新山河岸
江戸後期の新山河岸

 関東の川越にしても、40年ぐらいやっている。40年前私も学生時代関東の大学で声を掛け合って、手弁当で調査に行きました。もうボロボロだった時代で、もう壊されても仕方がないというぐらい傷んでいた。それが今あのように脚光を浴びるような町になったのも、そうゆう時間がかかっています。

 こうゆう町づくりは、どうやって持続させるかが一番重要な訳で、そのためにはやはり楽しくやらなければという事から始めたのが「雛祭り」なんですね。お雛様は必ず家の中に飾るんで、そのお雛さまと一緒に家を見てもらって、盛岡の町家ってこういう家なんですよというのをやりたくて始めたんです。来年4月で10回目になります。

 当初は市は都市計画道路は必要という時代ですから、一歩間違えれば「お前ら敵か」という立場です。ですから市に行っても何処にも話し相手が居ない訳で、その頃市長が変わりまして、すこし観光をがんばろうと出てきたのが「盛岡ブランド」というプロジェクトです。

講演に聞き入る参加者
講演に聞き入る参加者

 その中で、もともとは盛岡に冷麺を食べに来たって、冷麺だけ食べて帰る人はいない訳だし、町並みって大事じゃないかと言う処から、町並み景観プロジェクトが提案されました。当初はもやもやだったんです。別に鉈屋町をどうしようと云う事ではなかったんで、多分市が頭に浮かべていたのは、中の橋界隈の銀行群が頭に有ったんだと思うんですが、いろいろ話していると盛岡の町家というのも、その意味で盛岡の人達を知るうえで重要なことだろうと云う事からやっと市役所に窓口が出来ました。ちょうど3年目ぐらいですか、これと合わせて調査をする事が出来ました。これは町家が市内にどれだけ残っているかという調査なんですけど、およそ400残っているよという云い方をするんですけど、ただ1パーセントは壊れていますんで、それが10年経っていますので逆に300ちょっとぐらいかなと云う返事です。その中で鉈屋町は60ぐらい町家が残っている事になります。

鉈屋町雛祭りポスター
鉈屋町雛祭りポスター

 その調査の中でその結果に対して盛岡の町づくりをもう1回、何が資源なのかというのを位置付けし直そうと云うものでした。その中でちょうど我々は鉈屋町をやっていたものですから、先ず重点地区にして欲しいと要望、あとは順次地域の人達が動くようであれば、順次応援していただくのが一つの方法ではないかということです。その計画を作った後の翌々年平成20年に市長決済という形でその計画が市の施策に入ると云う事で、鉈屋町と市がぽそぽそと連携を組むようにやります。ただし一方道路が優先しますから、我々は町家を改修したり努力をしましょうとかね。例えば雛祭りの日には交通規制を実験的にやってみましょうとか、一部だけバスを走らせたんですけど、ほとんど乗ってもらえなくて一年やっただけでオシャカニなりました。確かに2時間に1本しか来ないバスを待つ人は居なく、残念な結果になりました。

 それから施設がないとイベントの日は見れるけど、そうじゃない日は見る所がないので、小さな所一か所でもいいから何時でも見られる場所を作ろう、それから箱が無いので「岩手川」は市が取得して、拠点施設の整備をして欲しいと云うものを平成18年の頃に要望しました。国の方は色々メニユを呉れまして、地区全体に対して景観資源の2分の1の補助制度を適用し、国が半分、市が半分で2分の1補助というものをこの地区ではやっています。

 今では毎月のようにいろんな事をやっているんですけども、皆さん何時でも来てくれる訳ではないので、お雛祭りとお盆の黒川さんさ踊りの門付けが皆さんと出会う場となっています。

鉈屋町の新番屋
鉈屋町の新番屋

 今、補助制度が出来たお陰で、この10年間で17軒修理しています。ほとんどの方が実際中に居ると寒いし汚い、この街筋のほとんど外観だけでなく現代の生活として使いたいと云う事で、高気密、高断熱、省エネ型住宅というあの手この手でいろいろやりながら、外観も変わらなくて、中のイメージをきちっと伝えられるように修理した中でやっています。地域の子供たちと一緒にブロック塀に板を張るようなこともやっています。それから仙北町の方には江戸時代の大きな土蔵が二つありまして、状態の良い方は寛永8年の建造物、これを無償譲渡していただき(実際には解体料がかかった)大きすぎるため現在某所に積み上がっています。

講演中の渡辺敏男先生
講演中の渡辺敏男先生

 それから、良いタイミングだったと思うのは、全国から町並み保存に関る人達が集まるような舞台を、東日本大地震の前に盛岡で開催する事が出来た事です。(全国町並みゼミ盛岡大会 2010年)

 さすがに市も全国の人達にアピールしたかったんだと思います。その開催直前に、鉈屋町に計画されていた大小3本の都市計画道路を中抜きし、この部分を廃止することを決めたのです。鉈屋町界隈のエリアを都市計画道路を廃止する代わりに、景観町づくりとし、ここでは高さ制限、形態制限、低さ制限もこの法律で縛っています。こういう法律の中で、この町にふさわしい町を作って行こうするもので、法律をベースにしたこれが第1号です。しかし盛岡、岩手県全体が全国からみると本当に足取りが鈍いところが有りますので、なかなか進めないだろうと思っています。

 来年には「岩手川」の方も色々使えるようになってきますし、まだまだいろんな課題が有ります。それをみんなとやっていかなければいけない。全国ではドンドン凄い事をやっています。京都なんかは自分が指定した建築、文化財だけでなく、全部の指定した建造物をルールに則れば建築基準法から外す。要するに今まで建築基準法で出来なかった事を建築基準法から外すことで、伝統的な部分を残せる事が有りますので、京都なんかそろそろ始めてとりあえず10年で2,000棟やるって云います。その費用たるや凄いなと思いますけど、こういうのが地方に伝播するのは後10年かかるんではないですかね。でもまあこういう時代になっていることが追い風になってくれるんじゃないかなあと思っています。

 講演の後、渡辺先生は閉店となった清水町の料亭「大清水多賀本店」が、庭園を含む保存改修を申し出る企業が有ったにもかかわらず、不調に終わったことに悔しさをにじませていました。

文・写真 熊谷正敏