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第58回文化サロン 平成25年9月26日


近代美術の展開と 萬鉄五郎・松本竣介

ゲストスピーカー 中村光紀先生
(萬鉄五郎記念美術館 館長)
第58回文化サロンのポスター
第58回文化サロンのポスター
中村光紀先生
中村光紀先生

プロフィール
1940年 盛岡市に生まれる
1963年 中央大学法学部法律学科卒業
1965年 岩手日報社入社、事業部長、三陸博広報宣伝部長(出向)を経て事業局次長
2000年 岩手日報社定年退職、盛岡観光文化交流センター館長
2002年 岩手大学教育学部芸術文化課程非常勤講師、もりおか啄木・賢治青春館館長、岩手県立美術館協議会会長
2009年 著書「美の祝祭」上梓、発行
2011年 萬鉄五郎記念美術館館長

講演中の中村光紀先生
講演中の中村光紀先生

 第58回目となる「文化サロン」は芸術の秋にふさわしく、中村光紀先生にご登場頂きました。先生は長年、岩手日報社事業局に勤務され数多くの美術展・絵画展の企画、運営に携わり、県民に世界の一級の美術品に触れる機会を提供してくださいました。

 現在は萬鉄五郎記念美術館館長の要職に就かれる一方、岩手大学教育学部非常勤講師として美術教育、学術・文化の振興に貢献されております。

 講演の冒頭、中村先生は「みなさんにお配りした資料の中に一枚の絵葉書が入っておりますが、これは萬鉄五郎の代表作と言われています「裸体美人」の複製です。しかしこの絵のどこが良いのか分からないとおっしゃる方が結構多いのです。今日はこの絵がどのような経緯で制作されたかを辿ることで、近代美術の展開が見えてくると思います。」と語り講演に入りました。

 講演は70枚に及ぶスライドが上映され、これらの作品に一つ一つ解説を加えて行く方法で進行し,間に10分の休憩をはさみ正味2時間に及びました。

 講演の内容は、中村先生が自らまとめた要旨に基づいてご紹介します。

印象・日の出 モネ
印象・日の出 モネ

【浮世絵の影響(ジャポニズム)は、世界の美術の潮流を変えた】

 ルネサンス以来のヨーロッパ絵画の伝統に、大胆な筆の運びと色使いで「色彩の革命」をもたらしたのが「印象派」の誕生(1874年)であった。それまで由緒正しき絵画とは、歴史的に意義の深い場面などを、写実的に荘重に仕上げるものであった。その当時、絵画には「階級制」があった。(1)歴史画(2)宗教画(3)風俗画(4)肖像画の順で、風景画はまだ独立の絵画とは認められていなかった。

 第一回印象派展に出品されたモネ『印象・日の出』は、あまりにも大胆な筆の運びと色彩で「印象を描いたに過ぎない」と非難され、「印象派」の名称になった。マネ、モネ、ドガらは日本贔屓で、浮世絵をたくさんコレクションしていて、日本美術から圧倒的な影響を受けた。

種まく人 ゴッホ
種まく人 ゴッホ

 ゴッホも浮世絵の影響を受けて大きく画風を変え、日本に限りない憧れを抱いて、パリから「日本に行く!」と言って南仏アルルへ行った。あこがれの日本に一歩でも近づきたい思いであった。ゴッホはわずか一年半の滞在で190点の油絵を制作、大胆な色彩で絵画の可能性を開き、後の画家へ大きな影響を与えた。

北斎漫画
北斎漫画

 北斎の絵手本『北斎漫画』(輸出陶器の包み紙に使われていた)を1856年頃偶然に見たフランスの銅版画家ブラックモンが、そのデッサン力、自由さ、着想の妙に驚き、マネ、モネ、ドガらに見せたことが影響の始まりである。北斎の代表作『富獄三十六景』シリーズの『凱風快晴』は、日本人好みの典型的な非対称の構図が西欧の画家を驚かせた。大波図の『神奈川沖波裏』は、大胆な構成は画家だけでなくパリの芸術家たちに影響を与え、この作品に刺激されドビッシーは交響詩『海』を作曲し、リルケが詩『山』をこの絵を見て書いた。また前面に大きなものを持ってくる構図を始めたのが北斎で、セザンヌの『松木のあるサント・ヴィクトワール山』などにも大きな影響を与えた。

富獄三十六景・神奈川沖波裏
富獄三十六景・神奈川沖波裏

 浮世絵の持つ「近代性」は宗教と神話、あるいは制度にとらわれていない人間世界の自由な表現がある。浮世絵版画は小さい画面でありながら豊富な色彩と線の美しさ、影をつけていないが立体的に見える。遠近法を取り入れ、主題が豊富で、洗練され、完成度が高いことが、モネら若い画家たちを驚かせた。

 浮世絵の影響(ジャポニスム)は、単なる一過性の異国趣味ではない。根本的にヨーロッパ絵画へ変革をもたらし、以後世界の美術の潮流を変えた原動力であった。

 日本美術は世界に誇れる文化である。

サント・ヴィクトワール山 セザンヌ
サント・ヴィクトワール山 セザンヌ
自画像 ゴーギャン
自画像 ゴーギャン
アビニョンの娘 ピカソ
アビニョンの娘 ピカソ

【潮流を変えた西洋美術が日本にも還流】

 明治政府の工部美術学校開校で洋画が導入された。その後東京美術学校になり、フランス留学から帰った黒田清輝が西洋画科の教授となり印象派の影響を受けた外光派が画壇の主流派になった。

裸体美人
裸体美人

 フランスでは1905年原色を大胆な筆使いで描いたマチス、ルオーなどの「フォーヴィズム」(野獣派)が誕生。また1908年にピカソ、ブラックが行った「キュビズム」(立体派)、そして1911年にはカンデンスキー、モンドリアンなどの「抽象画」が生まれるなど、絵画の表現領域が広まった。

【萬鉄五郎のアカデミズムへの決別】

 萬鉄五郎は東京美術学校西洋画科に入学、教授黒田清輝らの影響で外光派を取り入れた印象派の明るい色調で作品を描いた。そして東京美術学校の卒業制作『裸体美人』(後に重要文化財となる)で萬の個性がいっきに開花を遂げる。マチス、ゴッホの影響を受けたフォーブ的な激越した表現により通常の女性美への反逆の絵となって物議をかもした。美術学校の外光派アカデミズムへの決別である。

赤い目の自画像
赤い目の自画像
点描画風の自画像
点描画風の自画像

 萬にとって美術学校卒業の年、1912年(明治45年)は、特筆すべき重要な年である。つぎつぎと生まれるヨーロッパの新しい美術思潮を取り入れ、『赤い目の自画像』『点描風の自画像』などの「自画像」を多く描いている。また、日本近代美術史上で最も早い「抽象画」も試みた。その後のキュビズムを取り入れた『もたれて立つ人』は日本のキュビズム絵画の記念碑的作品とし高い評価を受けている。

 萬鉄五郎は、近代日本洋画史に大きな足跡を残した大正期の画家で、文展などのアカデミズムに対して超然と独立の姿勢を貫きながら、幅広い影響を後世に及ぼした点で、岸田劉生と並び称される重要な存在である。

雲のある自画像
雲のある自画像
もたれて立つ人
もたれて立つ人
顔(自画像)
顔(自画像)

【近代的な絵画詩といえる造形性をもつ松本竣介】

 松本竣介は、父佐藤勝身(旧南部藩士の家系、菩提寺は盛岡の長松院)の次男として1912年(明治45)東京に生まれる。2歳のとき父の事業にともない花巻に移り、小学校3年まで在学、そして父の貯蓄銀行創立参加のため盛岡へ移住。盛岡中学に入学したが、流行性脳脊髄膜炎のため聴力を失う。3年で退学して上京、太平洋画会研究所に通い画家の道へ歩む。

都会
都会

 1936年(昭和11)松本禎子と結婚、松本姓となり、自宅を「総合工房」として二人で月刊誌『雑記帳』を発行。その頃竣介は「線の画家」としての気質を開花させ「田園を愛するように都会を愛している」として都市風景を展開する。その都市景観は透明感をただよわせた抒情性と構成の明快さをもつ「街」シリーズに結実した。

Y市の橋
Y市の橋

 戦時下の暗転する時代のなかで、『画家の像』『立てる像』などの自画像は、ひとりの人間として己に誠実であろうとするヒューマニスト竣介の表情であった。戦争に協力しないと絵具の配給を止めるぞと短兵急な要求をする軍人たちに、「生きている画家」の論文を『みずゑ』に発表、芸術家への理解を求めた。

彫刻と女
彫刻と女

 戦中から重ねてきた無理が竣介の体力を消耗させ、1948年(昭和23)36歳の若さで世を去った。近代的な絵画詩といえる造形性をもつ松本竣介の作品はますます評価が高い。

講演に聞き入る参加者
講演に聞き入る参加者

 日本の浮世絵がヨーロッパの絵画に多大な影響を与え、世界の美術の潮流を変える原動力になった。そしてその潮流がブーメランのごとく還流し、日本の近代美術に多大な影響を与え、やがて萬鉄五郎や松本竣介の作品に繋がっているんだと改めて再認識しました。参加者は久々に大学の授業を受けているような気分に浸っているようでした。

(文・写真 : 熊谷)