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第57回文化サロン 平成25年7月25日


「私の盛岡ノート」

ゲストスピーカー 畑中 美耶子氏
(もりおか歴史文化館 館長)
第57回文化サロンのポスター
第57回文化サロンのポスター
ゲストスピーカーの畑中美耶子さん
ゲストスピーカーの畑中美耶子さん

プロフィール
1962年 IBC岩手放送入社、アナウンサーとなる
1969年 退社、フリーアナウンサーとなる
1982年〜2002年 盛岡子供劇団CATSきゃあ設立・主宰、毎年1回春休み定期公演
1985年〜 プロ・アナウンサー・ネットワーク「パネット」設立。ラジオ、テレビ番組制作・司会・ニュース担当、イベント、式典、大会企画・司会・運営
1994年〜 盛岡文士劇(復活)第1回から毎年出演
1998年〜 一人芝居に取り組む、「SETSU-KO」啄木ローマ字日記より(1998年エジンバラ・フェスティバル参加作品)
2011年 「もりおか歴史文化館」館長就任、全国CMフェスティバル最優秀ACC賞受賞等受賞歴多数

講演中の畑中さん
講演中の畑中さん

 おおよそ3年ぶりに再開しました文化サロンの初回は、「もりおかことば」を大切に、アナウンサーとして、もりおか歴史文化館 館長として大活躍されている畑中美耶子さんをゲストスピーカーにお迎えしました。畑中さんにはスライドや音楽、さらに朗読をまじえて盛りだくさんのお話をいただき、聴衆を惹きつけました。以下に要約して報告します。

「私の盛岡ノート」について

 この講演を引き受けるに当たって、どうタイトルを付けていいのか分からなくて、私が盛岡に住んで感じてきた事の雑記帳の様になれば良いかなと思った時、思い浮かんだのが立原道造だったのです。その立原道造から勝手に拝借して「私の盛岡ノート」と付けさせていただきました。

 今日は盛岡にゆかりの文人三人を私のモチーフに、私は一人の表現者として、その三人の方々が何を語って来たのかお話したいと思います。

 私は学者ではありませんので、この三人の方々に対しても私の個人的感覚でしかお話できません。そこのところはお許しいただきたいと思います。

 誰を三人取り上げたかと言うと、立原道造と石川啄木と宮沢賢治で、表現者としていろいろな場面で関わってきましたので語らせていただきます。

立原道造の詩碑(盛岡・愛宕山)
立原道造の詩碑(盛岡・愛宕山)

「盛岡ノート」は立原道造が恋人に宛てたラブレター

 立原道造が盛岡にやってきたのは昭和13年の秋です。深沢紅子さんを頼ってご実家の別荘で1ヶ月程過ごしました。その間に書かれたのが「盛岡ノート」です。盛岡の風景がこんなに美しく描かれた事が有っただろうかと思うほどに美しく描かれています。

 文章の中に「僕はこんなに「皇帝」を愛した事があっただろうか」とあります。 皇帝を愛するとはどんな事だろうと思いましたら、ベートーベンのピアノコンッエルトの事だったんです。

 この中の第二楽章がアダジオで、そのアダジオがどんなに美しいかという事が書かれています。愛宕山のグランドホテルからちょっと上ったところに立原道造の石碑が立っています。 そのタイトルが「アダジオ」です。

 今日はその「皇帝」のアダジオを聴いて頂きながら立原道造の書いた文章を読ませていただきます。

  • 「盛岡ノート」より   「アダジオ」   立原道造   朗読

 立原道造はこれ程美しい音楽を聴いた事がない、自分もこの音楽に負けないような文章を書きたいと願っていたといいます。文章の中でどこが一番好きですかと言われると、「僕は曙を見るために中津川におりて行った」という…陽の明りがどんどん川岸から川の中まで映っていくその繋がりが美しく、とても好きだなあと思います。

 この本に出会ったのは多感な青春時代でしたので、恋人水戸部アサイに宛てて立原道造が書いたノートに込められた想いに憬れて、私にもこんなふうに思ってくれる男性が現れないかなあと思っていたものです。

「アダジオ」を刻んだ詩碑
「アダジオ」を刻んだ詩碑

 立原は盛岡を離れる時「今度はリンゴの花が咲く時季にきっと来ますからね」と言って帰って行ったと言われています。亡くなったのは昭和14年3月29日。24歳の若さでした。盛岡のリンゴ畑のあの薄紅色のリンゴの花をもし立原が見たらどんな風に書いただろうなと思うととても残念なのです。

 このノートはアサイに宛てたラブレターであると私は思っています。

 こんな素敵な男性からこんなノートを贈られるような女性ってどんな素敵な人だったのか、長いことイメージしていましたら、盛岡の青春館で展示会が有り水戸部アサイの写真を見ました。とても美しいキリッとした感じの素敵な女性でした。

石川啄木像(盛岡・岩山)
石川啄木像(盛岡・岩山)

啄木の「ローマ字日記」 啄木の裏側を覗ける

 さて、私と啄木との関わりは、(賢治もそうなんですが)啄木は中学校も高校も私の大先輩と言う事になりますので、私は後輩として次に伝える役目があると思っています。

 啄木は賢治に比べると嫌いな人が多いのです。だけど賢治に負けないぐらい素晴らしい見解を持った人だったと思っています。悪くて暗いイメージだけが先に立ってしまうのだと思いますが、その啄木にも先見の明が有り、こんなことも考えていたのかという多彩な面があると、表現者として紐解くことで分かりました。

 啄木の芝居もいろいろやりました。井上ひさしが書いた芝居もやりましたし、朗読劇もやりました。一人芝居もやっています。その一人芝居で「ローマ字日記」を取り上げました。先日啄木研究者として有名なドナルドキーンの話をききました。

 県民会館が満席でびっくりしました。ドナルドキーンさん91歳だそうですが、大変お元気で、石川啄木の生涯を書き上げつつある、未だ途中だという事でした。これは又お元気だなあとびっくりしました。その時に彼は「ローマ字日記」を取り上げてお話をなさったんです。

 私は盛岡だけでなく全国あちらこちらで公演の度に「ローマ字日記」を読んだ事が有りますか?と聞いて来ましたが、どの会場でもほとんどの人が「ローマ字日記」を読んでいませんでした。

 ところがドナルドキーンをはじめ海外の人たちは先ず「ローマ字日記」から入るらしいのです。短歌が分からなくても「ローマ字日記」はローマ字で書いてありますから、日本語を勉強した方であれば読めるからでしょう。

啄木新婚の家(盛岡・中央通り)
啄木新婚の家(盛岡・中央通り)

 「ローマ字日記」の一人芝居を、エジンバラでやった事があります。エジンバラフェステバルというのは8月初めから末まで一カ月ぐらいのお祭りなのですが、世界のあらゆる芸術家が集まる祭で演劇だけでなく、舞踊家も居れば映画の関係の人も、小説家も絵画も芸術と名の付くものは全て集まるというフェスティバルです。

 そのエジンバラの人達も「ローマ字日記」を知っているというので驚きました。啄木は歌人と言うよりも小説家だとこの人たちは思っていました。

石川啄木像(盛岡・岩山)
石川啄木像(盛岡・岩山)

 啄木は本当にこまめに日記を付けていた人で、たくさんの日記が残っていますが、ローマ字で書かれたのは明治42年の4月から6月までの間、この部分だけがローマ字です。そして、この部分ほど赤裸々なものは他にない。どの日記を見ても「ローマ字日記」に書かれているほど啄木の裏側を覗けるものは無いと言っても良いくらいです

 これを、外国の人が一生懸命研究しているのに、日本の人は何で読まないのでしょう。

  •  「ローマ字日記」の冒頭部分を朗読

 実際の「ローマ字日記」は、国会図書館の金庫の中に仕舞われていますが、函館の文学館では毎年展示します。

 私も函館で公演した時に、何としても見せてほしいとお願いしましたら、マスクを架けさせられて、手袋をさせられて見ました。但しそれもコピーです。

 日記を開くと中は印刷したのではないかと思うほど美しい筆記体で毎日毎日が赤裸々に綴られています。海外の人達の受け止め方は深く、これが文学だ、啄木が本当にそれをやったのか、あるいは文学として創作して書いたのか分からないが、読物としてこんなに面白い読物は無いと思うという風に捉えています。日本では全く人気の無い「ローマ字日記」が、海外では啄木と言えば「ローマ字日記」と言われるほどに読まれています。

 私はこれを盛岡弁でやります。これまで何回上演したか分かりませんが、100回では済まないと思います。

 あの新婚の家を改築するという事になり、啄木が住むようになった6月4日をその記念日として、毎年一人芝居をしようということになったのです。でそして10年続けて卒業させていただきました。

 卒業記念にもう一か所だけどうしてもやりたいと思っている所が有り、お願いしたのが釧路でした。啄木が釧路を出たのが明治41年、その後42年の4月からの日記が「ローマ字日記」になっているのです。釧路が北海道としては最後の地で、そこを出て東京に行き、「ローマ字日記」を書き始めたのですから、どうしても釧路でやりたいと思って行かせてもらいました。

  • 石川啄木  「ローマ字日記」より      母の手紙     朗読
  • 石川啄木  「林中の譚」より  山本玲子訳「猿と人と森」  朗読
朗読に聞き入る来場者
朗読に聞き入る来場者

 これが100年以上前の文章です。こうしてみると啄木という人の多才ぶりがよく分かってくるのではないかと思います。まあ人間ですから色んな面を持っているのが当たり前で、際立っていやらしいところが目に付く人生を歩んでしまった啄木は、気の毒だったなあと思います。

 けれどもこうして紐解いて行くと本当にいろいろな事を良く考え、あの時代に今を見通していた事が分かります。

宮沢賢治像(盛岡・材木町)
宮沢賢治像(盛岡・材木町)

方言をきちっと文字に表して残してくれた宮沢賢治

 さて、方言の曖昧な音を文字にした天才が宮沢賢治だと私は思っています。この方言を消さない為に私は今歴史文化館館長として毎日一生懸命方言で話しています。私たちは神様が決めた順番で死んでしまいます。言葉も人間と一緒に死んでしまいます。そうすると読める人が居なくなってしまうのではないかと危惧しています。

 私にとって神様のような存在の長岡輝子さんも亡くなりました。百歳を超えて亡くなったのですから大往生なのですけれども、彼女が居たからこそ賢治の方言の作品が全国に伝わって行ったと思うのです。けれど彼女が居なくなったら、一体誰が読むというのでしょう。本当に盛岡弁であるいは東北弁、岩手県弁で、正しいイントネーションでしっかり読める人って誰が居るのと言いたくなります。

 私は方言指導で色んな人に指導しますけど、私たちがネイティブでフランス語を教えられたり、英語を教えられたりしたからと言って、同じようにネイティブに語る事なんて出来ません。それと同じ事でいくらそれらしく喋っても本物にはなれない。けれど残していかなければならない。賢治は方言をきちっと文字に表して残してくれました。

 しかし書いたものでは、それを読む人のイントネーションによって変わってしまいます。本当にその言葉がどう話されて、どういう場面で使われたかというのは、映画や、芝居で表現されることが一番だと思います。

 私が文士劇に出続けているという意味は、実はそこに有るのです。

  • 短歌 「ちやんがちゃがうまこ」  宮沢賢治   朗読

 賢治といえば生誕100周年の時に、「我が心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」という映画の方言指導をやりました。監督は大森一樹という監督でしたが、この「永訣の朝」に詠われているとし子が死ぬ場面。本当に時間をかけて撮りました。賢治がどれだけ泣いたか、死んだ後は押し入れの中に頭を突っ込んで号泣したと言われている場面。

宮沢賢治像(盛岡・材木町)
宮沢賢治像(盛岡・材木町)

 とし子を愛して愛して止まなかった賢治が、その死の朝の事をしぼり出すように書いている場面です。長岡輝子さんの朗読は聴いているだけで涙が出てきます。あんな風に読みたいものですが、それは神様の域で私はとうてい読めません。

  • 「永訣の朝」      宮沢賢治   朗読
  • 「雨ニモマケズ」   宮沢賢治   朗読

満席になった会場
満席になった会場

 ベートーベンの「皇帝」第二楽章「アダジオ」をBGMにして朗読された、立原道造の「盛岡ノート」、素敵なイラストをスライド上映しながらの「猿と人と森」の朗読、そして方言の魅力を思う存分味あわせてくれた「雨ニモマケズ」。どれも来場した方々を魅了させました。畑中先生に心より感謝いたします。

 久々の「文化サロン」再開にどのくらいの来場者が有るのか、内心ちょっと心配でしたが、会場がちょうど満席状態で、とても和やかなサロンとなった事に胸をなで下ろしました。

 なお川口印刷工業さんの「地域支援プロジェクト」の力強いご支援を頂き、当面年4回のペースで開催していく所存ですので、今後とも皆さんお誘いあわせの上ご来場下さいますようお願い申し上げます。

文・写真 : 熊谷正敏