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いわてシニアネット創立10周年記念文化サロン講演会
平成22年9月9日 ・ 会場:サンセール盛岡


講演2.「奥州の古刹 黒石寺と蘇民祭」
藤波 洋香 氏 (天台宗 妙見山黒石寺 住職)
いわてシニアネット創立10周年記念文化サロン講演会のポスター

藤波 洋香 氏
プロフィール
 昭和50年早稲田大学教育学部卒業、同53年大正大学院修士課程(天台学専攻)卒業、同54年〜57年水沢市教育委員会に社会教育指導員として勤務。昭和55年妙見山黒石寺住職となり現在に至る。
 平成元年〜16年総務省行政相談委員、同8年〜10年岩手県社会福祉審議会委員、同16年岩手県教育委員会委員となり現在に至る。

黒石寺の本堂

黒石寺の庫裡
 平成20年蘇民祭ポスター騒動
 私は黒石寺の住職を30年強しています。私もパソコンをメールの遣り取りやホームページでお寺のPRなどに利用していますが、インターネットの威力を思い知ったのは平成20年1月8日の事でした。この日出先から帰ってきて、何気なくテレビを点けたら当黒石寺蘇民祭のポスターの写真が、わいせつだとかセクハラだとかの理由で、JRの車内広告から外されることになったというニュースが全国放送で流れていたのです。

 これに仰天してメールを開いてみたら、日ごろ100件程度のアクセスしかないのに、なんと10,000件をこえるメールが殺到するようになったのです。と同時にイギリスで暮らしている息子から電話があり、「お母さんの強気な発言が、イギリスの新聞に載っているよ」とのこと、どうやらこの話題がインターネットで世界に流れた為らしいです。

 この反響はポスターを作った市役所にも及び、「ポスター送れ」のメールが殺到しました。このため、職員は朝出勤してメールを開くのが怖いとか、電話が鳴るたび怖いと慄く状態の毎日がしばらく続いたそうです。

 黒石寺は平泉より古い寺
 当黒石寺の売りは、平泉より古いという事。729年創建、中尊寺は1100年代のお寺で、岩手県内で内より古いお寺は天台寺だけです。天台寺は728年の創建を伝えるが、この差一年は本当かどうか分かりません。8世紀の創建といえば東北地方では最も古い時代のお寺にあたります。

 開山は行基です。行基さんは奈良の東大寺を造る時、お金を集めたりして全国を歩いた方ですが行基菩薩の開基を伝えています。その後蝦夷征伐で戦火に遭い寺は消失し、慈覚大師の円仁が再建したお寺です。円仁といえば中尊寺、毛越寺を開いた人、当黒石寺はその慈覚大師が再建したお寺なのです。再建するとき裏の山に籠ったら黒い石が有って、その上で慈覚大師が座禅を組んだことから黒石寺と名付けられたそうです。

 行基開山当時は薬師寺と言っており、お薬師さんが御本尊です。1000年ほど前は40幾つの伽藍を数えた由緒正しいお寺です。お寺そのものは落ちぶれていますが、幸い岩手県内では一番古い862年に造られた国指定重要文化財の薬師如来座像他、県指定の仏像など平安時代の仏像20体程が奇跡的に残っています。

講演する藤波氏
 蘇民祭の蘇民は人名から付いた
 そして、もう一つ残っているのが蘇民祭というお祭りです。
 蘇民という言葉は人の名前が由来です。この言葉が出てくるのは、731年ごろ出された「備後風土記」で、武塔神=スサノオノミコト=薬師如来、が旅先で困っていたとき、蘇民将来という兄弟の弟が冷たくあしらったのに対し、兄の蘇民が手厚くもてなしてくれたお礼に、「かつての報いをしよう」と茅の輪を腰につけさせるよう命じた。そして「私は速須左能神である。後世に疫病が流行した時、蘇民将来の子孫だと言って腰に茅の輪をつけた者は免れるであろう」と言い残した。と記されておりこれが全国的に広まる蘇民信仰の始まりとなったと思われます。つまり蘇民祭は全国的にあるのです。

 蘇民祭の準備は旧の12月13日に始めるのが習わしでしたが、現在はこれに近い日曜日に取り掛かります。檀家の人々が柴木を山から切り出して、その柴木を束ねて直径2メートル、高さ1メートル50センチの円形をつくり、その上に竹の弓矢を対で立て、ここが神の降りてくる潔らかな場所と決めます。祭りでは大量の木を使うため、その後日曜日の度に切り出し作業に追われます。それと並行して境内にむしろ小屋を設営したり、水凝りをとれるよう前を流れる川の掃除をしたりと準備作業は大変です。そうした準備、段取りを踏んできて最終的には一週間前からお精進に入ります。

 蘇民祭の準備は難行苦行
 この一週間が難行苦行なんです。肉、魚、卵、乳製品。ニラ、ニンニク、ねぎを食べない。それらが入ったお菓子も駄目で、食べられるものは限られます。豆腐と納豆、大根に白菜。調味料は塩と砂糖と醤油と酢、そんなもんです。それが一週間も続くんで食べる方も作る人も、つくづく厭になります。その外にも別火精進(お精進をしていない家で煮炊きしたものはお茶でも口にしない)。死者、お産、夫婦生活の禁忌など。
 これ程のお精進をしてるのは、お水取りの行事が残る奈良の東大寺さんぐらいでしょう。

 なお問題なのは蘇民袋のことです。昔は檀家がそれぞれの家で麻を植えていました。それを刈り取り、皮をむいて糸に紡ぎ反物にしていました。しかし戦後は麻を栽培する家も、機織機も無くなり、伝承不能となりました。その時、大槌町の小川さんという手織りの先生が、麻の織物の展示会を開いたという新聞記事を見つけ、小川さんにお願いしたところ平麻を紡いで反物に織り上げてくれると約束してくれたのです。
 蘇民祭の旧1月7日は妙見様(目の神様で北極星の化身)の縁日。そして旧1月8日は、お薬師さんの縁日です。

会場風景
 蘇民祭のメイン行事
 旧7日夜10時ごろから裸参り(夏参り)が始まります。寺の下を流れる川で水凝りをして身を潔める、もちろんこの時期は氷が張っていて氷を割っての水凝りとなります。

 そして川から上がって裏の妙見堂と本堂をお参りして又川に入る。これを3回繰り返して願をかけるのです。その時かける掛け声は「ジョヤサ」です。この意味は学者がいろんな説を挙げていますが、「除夜祭」ではないか。その外「浄夜祭」、や「常屋作」「除夜叉」などが挙げられています。

 その次は「柴燈木登り」と書いてひたき登りと呼びます。松の大木を2メートルぐらい井桁に積み上げ、これに火を点け、若者はそれに登って今度は火の粉で身を潔めます。そして、夜中の2時に別当登りと言って私が護摩焚きをします。登りとは、庫裡と本堂が離れておりますので、庫裡の方から本堂に移動することを言います。

 そして4時過ぎから鬼子登りが始まりますが、この鬼子登りというのがくせものでして、蘇民祭が今後継続できるか否かは、蘇民袋とこの鬼子の確保に懸っているのです。
 鬼子というのは数え年7歳の男の子で、だいたい5歳の男の子を鬼子というふうに決めます。その男の子は麻の衣に身を包み、木槌と木斧を持ち、鬼の面を逆さまに背負って、大人におんぶされて登ってきます。民俗学者に言わせますとこの鬼子に神が乗り移るので非常に重要な意味があるのだそうですが、今檀家にはこれに当てはまる子供は居ません。

 そして明け方午前4時ごろ蘇民袋争奪戦に入ります。鬼子の行事が終わった後檀家総代が麻の紐で蘇民袋を縫い上げます。この中には小間木という大きさ3センチぐらいの六角柱のお守りが五升枡一杯分くらい詰まっています。30分ぐらいすると、この蘇民袋を小刀で切り裂き、同時に数百個のお守りがバラバラと飛び散り、それを奪い合う訳です。

 最後は袋だけの取り合いになり、この集団を世話人と呼ばれる人が石段から突き落とし、最終的に国道343号線に飛び出ます。その集団が東に行ったら東が豊作、西に行ったら西が豊作になると言い伝えられています。


質問する来場者
 蘇民袋を獲得した人は無病息災を約束される
 袋の取り合いは次第に落伍者が出て、最後まで麻縄で縛った首の部分を握りしめていた人がこの祭りの勝者となります。寺に帰り最後まで残っていたおよそ30人でこの蘇民袋を切り分け、それぞれが家に持ち帰り、それを一本一本麻糸をほぐし家族に持たせるのです。それが蘇民将来の子孫ですという証拠になり、一年間の無病息災が約束される訳です。
 これが祭りの古い形を残すという事で、岩手県内10カ所の蘇民祭が記録すべき文化財の指定を受けております。


拍手につつまれる会場
 いわてシニアネットは、皆様のご支援をいただきお陰さまで創立10周年を迎えました。この記念の「文化サロン講演会」も盛会裏に開催することができ、ご参加の皆さま、貴重な講演をしていただいたお二人の講師に厚くお礼申し上げます。
(文:熊谷正敏  写真:庄司隆)  

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