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いわてシニアネット創立10周年記念文化サロン講演会
平成22年9月9日 ・ 会場:サンセール盛岡


講演1.「新渡戸稲造―慈悲深きその生涯」
藤井 茂 氏 (財団法人 新渡戸基金企画部長)
いわてシニアネット創立10周年記念文化サロン講演会のポスター

藤井 茂 氏
プロフィール
 藤井茂氏は昭和24年(1949)6月生まれで秋田県大館市出身。
 盛岡タイムス社・社会学芸部長、編集委員、校閲部長を経て現在、財団法人新渡戸基金企画部長。
 藤井さんは最初に、新渡戸の表面的な面だけでなく深まった新渡戸像を語りたい。結論的に言えば新渡戸は「わるがき」みたいな醜い顔が最終的に非常に良い顔になった。それは無数の善行を施したからだと、話した。新渡戸の存在そのものが「善行」で、それが無数にあるのであまり光って見えていない。
 「世界を良くしよう。そのために自分は何ができるか」というのが新渡戸の本質であることを強調したい。その本質について話を進めたい。


講演する藤井氏
慈悲の数々
 札幌農学校教授時代
 新渡戸の善行は20歳のころから71歳で亡くなるまでほぼ半世紀にわたって続く。善行を積みに積んだ人生だといえる。要職で忙しい合間に人の身になって相談にのり、お金を融通してあげるなど人の世話をしている。偉くなると自分の地位にのけぞっている人が多いが新渡戸は違う。新渡戸のような人はあまりいない。

 明治24年3月に札幌農学校の教授に就任したが、そのころ同校の存続が風前の灯火だった。当時東京大学より程度が高いことや、卒業生が農業に生かされていないなどで政府に閉校する動きがあった。これに対して校長の佐藤昌介が、この学校がないとこれからの日本の農業の指導者をつくれないのではないかと政府に働きかけて存続が決まり、工学部ができ、発展のもとを築いていく。

 しかし教授が8人だけであったので手分けして3人分も5人分も教えなければならなかった。新渡戸もよく教えた。英語や農政学などを教え、さらに学校外でも中学校で教え、アイヌの庇(ひ)護の講演会なども開催した。八面六臂(ぴ)の活躍をしている。
 このような中、「遠友夜学校」をつくった。6〜7歳から20歳まで授業料無しで学べる学校である。資金は奥さんの生家(米国)から贈られた数千万円(現在価値)に頼った。奥さんはこのお金を貯蓄しようと思ったようだが、貧しく学校に行けない子弟のために学校をつくろうという新渡戸の考えを快く受け入れた。そして「なんと崇高な人だ、この人と結婚してよかった。この人についていけば間違いないと心の底から思った」そうである。

 あるとき、旭川に農業を教えに行った帰りの乗り合いバスで50代の男性と20歳くらいの女の子に出会い、新渡戸が察した通り、男性がその女性を旭川で50円(現在では50万円)で買ってきて札幌に売りにいくところだと言う。新渡戸は70円で売ってくれと申し出、名刺を出して後日の支払いを約束して自分の家に連れ帰った。奥さんはそれに驚くことはなかった。新婚のときから男性、女性の区別なく家に連れてきて、多いときは十数人も置いていた。奥さんは新渡戸の精神をよく理解しているからこのような人たちを受け入れていた。
 その女の子の親にはしばらく家で働いてもらうと手紙を出し、中学校に入れたりして面倒見てから旭川に帰した。
 新渡戸の家では聖書研究会(奥さんはクリスチャン)といろんな人生訓を学ぶ会を開いた。

会場風景
 台湾総督府時代
 新渡戸は札幌で仕事のやり過ぎで神経衰弱になり、鎌倉、沼津、伊香保を回り、さらには米国のカリフォルニアで転地療養した。そのときに書いたのが「武士道」で、書き終わるころ、後藤新平から台湾総督府に誘われ、台湾に赴任した。
 そのころの台湾の糖業は150カ国のうち140番目くらいであったが、新渡戸の改良意見書によって、100番目、50番目、10番目と飛躍的に成長した。それは台湾のみならず日本も潤すことになった。

 台湾で泊っていた宿で、女中さんが運んできた朝食の味噌汁がこぼれていた。昼食も同じでいつもと違うので宿の主人に聞くと、日本に置いてきた息子さんが不慮の事故で亡くなったがお金がなくて帰ることができずやきもきしている、とのこと。それは大変可哀そうと誰でも思うが、新渡戸はそれだけで終わる人ではない。女中さんがどのようにしたら喜ぶかを考え、宿の旦那さんの了解を得て芝居につれて行った。子どもを亡くした悲しい芝居で最初から最後まで泣かされる芝居であった。これは今の言葉でいえばカタルシス(浄化作用)で、芝居を見て泣いてくれれば少しは自分の子どもさんのことを忘れてくれるのではと、新渡戸は思った。困っている人に何かを施さないと気が済まない人だった。

 旧制一高校長時代
 台湾勤務のあと京都帝国大学の教授を経て旧制第一高等学校の校長になったが、この時代も大変良い事を施している。生徒から森戸辰男(戦後に文部大臣)が冬を越せない状況と聞いて、森戸の下宿を探して餅にお金を添えて届けた。森戸はずっと誰に施されたのか分らずにいたが後で新渡戸校長と知り、新渡戸が亡くなってから回想している。
 石井満(出版業に関係した人)が、一高に入った直後父親を亡くし退学せざるを得ない窮状を新渡戸校長に訴えたところ、一高のみならず進学した東大の授業料の面倒をみた。石井はこの恩を忘れず新渡戸が死去した1年後には最初に伝記を出版した。

 新渡戸は通常住む家のほかに学校の近くにもう一軒の家を借りた。学生たちの話を聞き、アドバイスをするためである。顔色が悪い生徒には冷水浴を、また、お母さんには電話をかけるとかハガキを出すよう勧めた。気楽に接し具体的なアドバスをしている。
 一高生は弊衣破帽で女性を近づけない習慣があるがそれはいけない。お母さんから生まれ、いずれは女性と結婚するのだから女の人を嫌がる変な態度でなくやわらかな態度で接することだと説いた。今から100年前に新渡戸は言っている。
 一高では1年生は全寮制で寮生は万年床の生活であったが、これを改めるよう具体的に指導した。弊衣破帽の一高生に当たり前のことをしっかりするよう指導し、エリートとして世に出る者に決して勉強せよとか偉くなれなどとは言わなかった。

講演する藤井氏
 東京女子大学学長時代
 一高校長の後に就任した東京女子大学学長(初代)時代も学生に勉強せよとは言わなかった。この学校を学校らしい学校にしてはいけない。学校らしくない学校にしなさい、家庭的な雰囲気の場所にしなさい、と先生や学生に言っている。
 この学校の学生にこれだけは守ってく下さいと言ったのは、犠牲(Sacrifce)と奉仕(Servise)という精神をよく覚えなければいけなないと。この言葉は英語でどちらもSで始まるので校章はSを組み合わせた図柄である。今の学生に校章の由来と精神をどこまで理解されているだろうか。

 また、新渡戸は講演や教壇で「学力よりも人格と人柄を陶冶(や)しなければいけない」と言い続けている。しかし、今は新渡戸の精神から離れていっているようだ。
 新渡戸は大学に自動車で通っていたが、雨の日に歩いている学生に見つけると大学まで乗せてやった。乗せてもらった学生は大変感激し喜んだ。その感激は生涯記憶に残る。先生は単に学力をつけてやるだけでなく、このような思いやりが大事ではないだろうか。

 一高の校長時代に「実業の日本」という雑誌に投稿している。「実業の日本」は現代の週刊誌のような雑誌で、社長から請われて書いている。どのように人生を生きたらよいのか、どうゆう男性と結婚したらよいのか、どうゆう家庭を持ちたいかなどのテーマで書いた。これは簡単なようで非常に難いテーマである。
 一高の校長や東大の教授がそのような投稿をするとその地位を下げると、同僚など何人もの人から執筆は止めなさいと非難ごうごうであった。これに対して新渡戸は、日本各地から毎日のように多く相談の手紙をもらっているので書かない訳にはいかない。また、我々は明治の初めから親によって高い学問や高い見識をつけてもらった。高い所にいる人間が低いところにいる人間をばかにする材料にしてはいけない。高い所にいる人間は下におりて同じ目線で考えてあげないといけないのではないか。これを聞いた非難している人たちは言葉を失い何も言わなくなった。「実業の日本」だけでなく「婦女界」などいろんな雑誌に書きまくった。

 石川県を教育視察したとき、ある女学校で生徒が先生に「父親が近ごろ大変悪い行いをした。憎いので殺してもよいでしょうか」と質問をした。先生は教科以外のことで考えてもいないことで答えられない。視察していた新渡戸はこのようなことは常に考えていたので「私が答えましょうと」と応じた。新渡戸はそのようなことに常に考え準備をしていた。学問だけだなく広い知識を持っていた。講演でも幅広く深い知識をもってお話をしたので聴衆は感心した。

新渡戸稲造の銅像(盛岡市役所裏に立つ)
 国際連盟事務次長時代
 新渡戸は国連の何千人もいる職員中の星と言われた。人格、人柄、精神が立派で、また総長からは「慈悲深い人」と評された。こう言われて辞めた職員は誰もいない。
 新渡戸を頼っていた女性の息子さんの学費を全て出してやった。その息子は成人してから国連の職員に採用された。
 国連の時代、今の「ユネスコ」の前身となる「国際連盟知的協力委員会」を立ち上げた。世界の平和のために世界の大人物を集めた。キュリー夫人、アインシュタイン、ベルクソンなど。キュリー夫人には参加を断られたが新渡戸は最初の1回だけでもと説得して出席してもらった。会議でキュリー夫人の席を意図的にアインシュタインの隣にして大好きな科学の話が出来るように配慮し夫人を喜ばせ、以後欠かさず会議に出席した。会議中キュリー夫人が落とした鉛筆を後で探して持ち帰り、現在先人記念館に展示されている。赤い鉛筆でマリ・キュリーとサインがある。

 新渡戸は言っている。この世に生れたのは人を助けるなど良いことをし、時代を良くするためである。新渡戸の財力は(収入)は中の上くらい。もっと金持ちはたくさんいるが新渡戸ほど施しをした人はいない。当時は施す気持ちの人は少なかったのでは。
 農学校の生徒時代、母から偉くなるまで母の顔を見には絶対帰ってくるな、と言われた。9年後農学校を卒業する直前、夏休みを利用して青森、十和田を経て盛岡の家に帰った。母が亡くなった2−3日後であった。死に目に会えなかったことを悔やみ一晩泣き明かした。そして東京に行ってバイブル(聖書)を買った。

 新渡戸は札幌農学校に入学してから洗礼を受けキリスト教に目覚めていたが、何となく「腑(ふ)に落ちない」でいた。それがジョンズ・ホプキンス大学入学してから、クエーカー教に出会い生涯クエーカー教徒で通した。
 新渡戸ほど多くの女性に囲まれた人はいない。女性に非常に親切にし、人間としてあつかい無論女性問題は起こしていない。男性を助ける、女性の相談には乗ってあげる。生涯善行を続けた。

 母から言われたこと。「身を正しくして世界に名をあげてくれ。そうでないと母に似てばかだと言われる。父親、お祖父さんに似て大したものだと言われるような人物になってくれ」と。母親の手紙が十数通残っている。7月18日の母の命日には、必ず一人で半日部屋にこもり、母からの手紙を広げて涙を流して読むのを常とした。死に目に会えなかった後悔をしながら。

 最後に
 新渡戸は人のために有効にお金を使った。数十万、何百万、何千万のお金を上げるようにして有効に使った。地位でなく世界の人、日本の人に尽した善行の数々をいろんな例をあげて書いてみたいと思っている。
 書くだけでなく自分がこのうち何分の一でも出来るだろうか。そのような人間になれるだろうかと、言うのが私の新渡戸に対する考え方である。新渡戸のことを少し分かった自分がその精神で行いが出来れば良いと思うようになり少しは強く生きられる感じがしている。


拍手の会場
 「次ページの講演2に続く」