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第54回文化サロン 平成21年10月28日

「現代に生きる『遠野物語』への招待」
ゲストスピーカー  高柳 俊郎 氏
(遠野物語研究所 所長)

第54回文化サロンのポスター
プロフィール
 高柳俊郎氏は昭和6(1931)年、岩手県金ヶ崎町生まれ。遠野高等学校を卒業。主に遠野市内で中学校社会科の教師を勤め、遠野市立上郷中学校長で定年退職しました。
明治大学教授 後藤総一郎氏の主宰する遠野常民大学で学び、平成7年、遠野物語研究所創設以来、研究所所長代理として『遠野物語』ゼミナールなどの企画運営と、研究所出版図書の編集にあたりました。平成15年、後藤総一郎氏の死去により遠野物語研究所所長を引き継ぎ現在に至っております。
 著書としては、『遠野教育論』(自家版、昭和63年)、『柳田國男の遠野紀行』(遠野常民大学、平成4年)、『注釈遠野物語』(編集代表、筑摩書房、平成9年)、『やさしい「遠野物語」入門』(平成21年)があります。
 論文は、主に『遠野物語研究』『遠野常民』『遠野文化誌』に多数掲載しております。また、『遠野物語ゼミナール』『遠野物語研究』『遠野常民』『遠野文化誌』『遠野物語通信』の編集にあたっています。

講師 高柳氏

スライドのタイトル
 今回の文化サロンは、遠野市から高柳俊郎さんをゲストスピーカーにお招きして、百年前に出版された『遠野物語』の不思議な世界について、今、あらためて日本人の心の風景として大切なものであることを紹介していただきました。
 高柳さんは、定年退職後、『遠野物語』の研究に取り組まれ、著書 ・ 論文を発表しておりますが、特に『柳田國男の遠野紀行』の紹介がありました。柳田國男は遠野に3回来ているが、ルート、方法(明治42年は人力車と確認)、会った人など確認されていなかったのを調べてまとめた著書とのことです。
 次に、本年8月30日から毎週日曜日版に8回に亘り、毎日新聞の「聖地日和」で『遠野物語』の聖地(続石、トンノミの森、白見山、五百羅漢、篠権現など)を巡った記事が掲載され、分かり易く解説しており一読のお薦めがありました。
 来年、出版されてから百年の節目を迎える『遠野物語』の不思議な世界を、スライドを使って豊富な内容で解説していただきました。紙面の関係もありこれらを要約してスライドの一部とあわせて紹介します。


三山伝説
1. 『遠野物語』には遠野に伝わる不思議な話がたくさん語られている。
 遠野盆地は湖だったとう伝説がある。(一話)物語は先ず三山伝説(早池峰山、六角牛山、石神山)から始まる。
 「・・・大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の娘目覚めて窃(ひそか)にこれを取り、わが胸に載せしかば、ついに最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。」(二話) 末の娘が一番良い早池峰を取った。戦前は女人禁制の山、戦後は女の人も自由に登っている。
 さらに次のような話が次々と出てくる。
 ・ 山々の奥には山人住めり。部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀る。(一四話)
 ・ 旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。(一七話)
このほか、猿の経立(ふったつ)(三六話)、河童(五五話)、雪女(一〇三話)など。

柳田國男
2. 明治43年(1910)に『遠野物語』(一一九話)ができた。
 著者である柳田國男(1875〜1962)は、兵庫県福崎の出身、東京帝大卒、農業政策担当の役人として農商務省に勤める。遠野物語を書いたときは34歳、若い頃は新体詩人として抒情詩を作り、多くの文人(国木田独歩 ・ 田山花袋・泉鏡花、島崎藤村、水野葉舟など)と交流している。
 明治31年、学生の頃、伊良湖(渥美半島の先端)で椰子の実が黒潮にのって流れつくのを見て、同じように日本人の先祖は南から黒潮にのって来たのではないかと考えた。島崎藤村がその話を僕に譲りたまえと言って、「椰子の実」の詩を書いた。
 役人を辞めてから朝日新聞社の顧問となり、国際連盟の委任統治委員会委員として駐在のスイスから帰国してから民間伝承の会をつくり、民俗学を打ち立てた。昭和26年に文化勲章受賞、昭和37年に死去した。

 明治41年11月4日に水野葉舟が佐々木喜善を柳田邸に連れて行き、そこから『遠野物語』の聞き書きが始まった。柳田は序文に「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石(喜善のペンネーム)君より聞きたり。・・・鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた感じたるままを書きたり。」と書いている。
 聞いた通りでなくて「一字一句も加減せず感じたるままを書いた、即ち、胸に受け止めたまま書いた」ということ。その意味で「柳田國男の作品」といえる。


佐々木喜善
 佐々木喜善(1886〜1933)は、現遠野市土淵町に生まれる。盛岡の江南義塾を経て岩手医学校に入るが泉鏡花の「高野聖」の世界にあこがれ、中退して作家を志して上京。哲学館、早稲田大学で勉強し多くの文人と交わる。水野葉舟、前田夕暮、三木露風、北原白秋(喜善に目をかけた)、石川啄木など大変贅沢な仲間と交流をしている。
 喜善は柳田に遠野の話をするが、柳田はこの物語を遠野の人のためでなく都会の人、東京の人に読ませたいと思った。(一話で遠野へ行き方を紹介している)
 明治43年6月14日初版本出版、序文と題目で119話、350部印刷、半分は友人、知人等に贈り、半分を売りに出した。
 出版から22年後の昭和8年佐々木喜善が仙台で亡くなる。昭和10年に「遠野物語拾遺」(299話)を発行、初版は文語体、拾遺は口語文で読みやすくなった。

スライドに注目して
3. 山人について 何故「遠野物語」は山人の話から始まるのか
 三話で栃内村の佐々木嘉平衛という人が山奥の岩の上に居た美しき女を銃で打った話。四話では山口村の吉兵衛が根子立という山に入り穉児(おさなご)を負若き女(山女)の通るを見た話。五話では笛吹峠では必ず山男、山女と出逢う話。
 六話(長者の娘が取り隠しされた話)、七話(娘が栗拾いに山に入って山男に捕えられた話)、八話のサムト婆の話、九話(深き谷底から山男の声を聞いた話)など。
 三話から九話まで始まりは山男、山女の話になっている。
  第八話の例を紹介する。
 「黄昏に女や子供の家の外に出ている者よく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)というところの民家にて若き娘梨に樹の下に草履脱ぎ置きたるまま行方知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家の集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。」
 娘はどこに行って帰ってきたのか。山の者という想定がここにある。

4. この世とあの世(うつし世と隠り世)
 八話を読むときにこの世とあの世との関わりをみなければならない。
 寒戸、梨の樹、草履が現実で「現世」、現し世(うつしよ)。サムト婆がつれていかれた山人の世界は「異界」。「現世」と「異界」の境目を「境界」という。黄昏(誰そ彼はの要約で夕方から夜にかけてのボンヤリしている時刻)は時間的な境界、そのとき「現世」にいる我々は「境界」のところまでしか見えない。隠世(かくれよ)にいるもは「境界」を突破して私たちのいる「現世」が丸見えだ。


現世、境界、異界の説明
 場所として「境界」を考えると、「土淵の山口村の何某という男が留場の橋で見慣れぬよき娘(ザシキワラシ)に逢った」(一八話)、「新屋の家の馬が姥子淵で河童に引き込まれようとして、逆に河童が馬に引きずられ厩の前に来たり」(五八話)、「小国の三浦家の嫁が白望(しろみ)の山奥でマヨイガに行き当たる」(六三話、六四話)
 これらの話の「留場の橋」「姥子淵」「白望(しろみ)山」が「現世」と「異界」の「境界」の役割をしている。私たちから河童は見えない。欲の深い者が山奥に行ってもマヨイガには行き当たらない。

柳田説の日本人の成り立ち
5. 柳田國男は山人を追っていた
 柳田國男は、明治41年に九州を講演旅行したとき、宮崎県の椎葉村に立ち寄り焼畑とイノシシ狩の資料を見て思った。日本の古代の狩猟と農業は山奥へ行けばその古い姿が見えるのではないか。
 椎葉村での話を聞いた水野葉舟が遠野の佐々木喜善がもっと面白い話を知っていると、明治41年11月に佐々木喜善を柳田國男のところに連れて行った。
 椎葉での体験を書いた「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を明治42年3月に出版(同じ月に「天狗の話」を雑誌に書く)。その8月に遠野を訪れる。明治43年4月に「山人の研究」を雑誌に発表し、5月に「石神問答(しゃくじんもんどう」を、6月に『遠野物語』を出版する。柳田は何故山男、山男と言っていたのがこれらの本と重なっている。『遠野物語』は柳田が山人に熱中していたころの作品。


トンノミの古池の場所
6. 柳田國男が考えた日本人の成り立ち
 先住民族と天孫族(渡来した日本人)が半島から稲を携えてやってきて先住民族(古代の日本人)と交じり合い同化して農耕生活を営む。それが現日本人だ。しかし、山に隠れて原始生活をしていた者もいるだろう。原始生活をしている人が椎葉の山でのように生活しているとしたら、それが山人である。と柳田は考えた。
  しかし、柳田がいくら力説しても山人は発見されず証拠が出てこない。そんな筈はないという人あり。以後柳田は「山人」を口にしなくなった。柳田が口にしなくとも先住民族(古代の日本人、縄文人)がいたことは確かだ。
 そこで私は、「拾遺」三六話から考える。昔から行く事が禁じられていたトンノミという古池に行った者が衣冠をつけた貴人に森の外に投げだれた話。衣冠をつけた貴人、古池は、長い間(2千年か3千年)強い信仰心で信じて受け継がれてきて、今の人たちが見ているマボロシだろう。トンノミというのは湧き水と森の聖地で、先住民族、縄文人の信仰のあとで、これを辿れば山人の生活の痕跡があるのではないかと思う。

姥石伝説
7. 伝説・歴史
 ・ 姥石伝説(「拾遺」一二話)
 「綾織村の字砂子沢では、姥石という石が石神山の裾野に立っている。昔一人の巫女が、この山たとえ女人禁制なればとて、われは神をさがす者だからさしつかえないといって、牛に乗って石神山に登って行った。するとにわかに大雨風が起こり、それを吹き飛ばされて落ちてこの石になった。その傍には牛石という石もある。」石神山は遠野三山の一つ、姥石は2メートル位、牛石は強大で長さが8メートルあり。
 ・ 畑屋の縫伝説(三二話)は、上郷町細越畑屋の高橋金助さん(健在)の家に伝わる。
「千晩ヶ岳は山中に沼あり。この谷は物すごく腥(なまぐさ)き臭のする所にて、この山に入り帰りたる者は少なし。昔何の隼人といふ猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追ひこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて逃げ、次の山まで行きて片肘折れたり。その山を今片羽山といふ。さてまた前なる山へ来てつひに死したり。その地を死助といふ。死助権現とて祀れるはこの白鹿なりという。」
 これは、千晩山、片羽山、権現山という山に連なる伝説になっている。このほかに羽衣伝説(「拾遺」三話)、三山伝説(ニ話)、青笹の御前沼(「拾遺」三話)、蛇洞(「拾遺」三〇話)、神の石の舟(「拾遺」三八話)など多くの伝説が書かれている。


千晩山
8. 民俗を知る
  民俗とは人々の生活の中に伝えられた文化。その土地の人々の衣 ・ 食 ・ 住、冠 ・ 婚 ・ 葬 ・ 祭、年中行事が神様や仏様を祈る信仰の様子など民俗として窺われる。
 例えば、「この郷の年中行事は、すべて旧暦によっている。十一月十五日のタテキタテから二月九日の弓矢開きまで年取りの行事が行われる。」(「拾遺」二七三)。2ヶ月近い期間にいろんな行事がつまっている。遠野に昔話が多く伝わっているのは正月の行事が多いからではないか。

 小正月の行事には、
  ・ 女の年取り(諸道具に餅を供える) ・ 鍵鼻様の餅(囲炉裏の自在鍵)
  ・ 蔵や納戸の鼠 嫁子餅 ・ 狼の餅(狐の餅) ・ 烏呼ばり ・ やくろう
など13の行事があった。また、遠野地方では3月の節句には子供たちが集まってカマコヤキ(野外炊事)という雛祭りにまさる楽しみとされた行事があった。(「拾遺」二九三)
9. 昔話の世界
 「小鳥前生譚」といのがある、小鳥が小鳥になる前はなにだったのかを語る昔話。オット鳥(五一話)、馬追い鳥(五二話)、カッコウとホトトギス(五三話)など。
 五一話は、「山にはさまざまの鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり、夏の夜中に啼く。・・・昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れになり夜になるまで探しあるきしが、これを見つくること得ずして、つひにこの鳥になりたりといふ。オットーン、オットーンといふは夫(おっと)のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴き声なり。」

満席の会場
 オット鳥は、高橋喜平さんが「遠野物語考」でコノハズクと特定してくれた。この話の長者の娘と男の子に注目して二つの話題を提供する。
 一つは、仲良くなった長者の娘と長者の男の子は、シェークスピアのロミオとジュリエットか。これとの繋がりは専門の学者先生にお願いするしかない。
 二番目は、この鳥が里に来て啼く年は凶作だといわれる。深山にいる鳥が里におりてくるのは気候変化があったからで、田畑の作物にも変化が現れると予測した。天気予報のない時代には動物の行動から自分たちの生活に引き入れた。今は科学が発達して自然のものからこうした事前の予告、予兆から見定める力が衰えてきたのではないか。

 遠野物語には115話から昔話が書かれている。「御伽噺のことを昔々という」(一一五話)、「牛方山姥の話」(一一六話)、「うりこ姫子の話(一一七話)がある。一一八話話には「紅皿欠皿の話も遠野郷に行なわる。」と書いてある。継母に悪(にく)まれたが神のおあ恵みで長者の妻になる話、岩手では糠福米福、シンデレラの話。
 シンデレラはグリム童話、グリムよりもっと古くヨーロッパ、中国でも日本でも同じ継子話があった。昔話を追いかけていっても地球規模、世界に広がる。

折口信夫(釈迢空)の長歌
10. なぜ『遠野物語』を読むのか
 一つは、まず、すぐれた文学として、想像力を働かせて読んで欲しい。イメージを働かせないと遠野物語は、うそだまし、ばかばかしい、お化け話で終わる。心をこめて見るとそこには私たちの先祖が歩んだ精神史がある。
 もう一つは、伊能嘉矩が言っている「甘棠の愛」という言葉がある。私はこの二つで遠野物語を読みたいと考えている。(「甘棠の愛」の解説は後記)
 現代は、遠野の人にとってみると100年前の東京の人と同じ距離で見ることができ、生々しい身内の話も、距離をおくことで客観化して読むことができるようになった。
 折口信夫は「釈迢空」と号して詩歌もよくしたが、大正3年に駿河台神保町の古本屋で『遠野物語』を見つけて感動して詠った長歌がある。その一節に「喜びは渦汐なして うつそみの心ゆすりぬ。 風の音の遠野物語」とある。この一節は遠野博物館の定礎に刻み込まれている。『遠野物語』が釈迢空の人生を決定したといわれる。
 金田一京助は、「遠野物語一巻はゆくりなくも日本民俗学の呱々の声となったのである。」、桑原武夫は「『遠野物語』は何よりも、一個の優れた文学書である。」、三島由紀夫は、この中で私が「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取りにさはりしに、丸き炭取りなればくるくるとまわりたり」という件である。と評した。このように読み込む力が大事だと思う。
 『遠野物語』は遠野の不思議な世界として、民間の神々の信仰、さまざまな伝説、山や里の怪異譚 野生の自然界との交流、民俗、それを巡る人間の生き方が書いてあり、 それを読むことによって日本人の先祖が歩んできた道筋を窺い知ることができる。
 しかも、わが国のどこにもあった世界が遠野だけが百年前に記録された他にない作品だからである。

伊能嘉矩
 次に伊能嘉矩を紹介します。
 伊能嘉矩は遠野出身の台湾研究者の先駆者、郷土研究家。この人の言葉に、「真の愛郷心は甘棠之愛より来る。」というのがある。「甘棠之愛(かんとうのあい)」とは、昔、中国の周公という人が、地方を巡って公平な裁判をした人で慕われた。そのとき、いつも甘棠(小さなリンゴ)の下で裁判を行ったので、人々はその徳を慕ってそのリンゴの木を大事にした、とう故事。
 これを翻訳すると、郷土の文化財、記念物を大事にしよう。そこには郷土を育んでくれた先人の行き方、精神が込められている。それを通して先祖の心を知り私たちの生き方を考えよう。ということである。

 折口信夫や金田一京助が佐々木喜善を「日本のグリム」と評した。喜善は多方面に活躍したが中心は昔話の蒐集 ・ 研究。代表的作品は『奥州のザシキワラシの話』でザシワラシ研究の原点、ザシキワラシを知るための最高のもの。
 喜善のことばに「広い日本の中には実際どんな珍しい宝玉がどんなに多く土の中に埋没されているか。それを掘り起こさなければならないと思う」と「江刺郡昔話」の中で書いている。この言葉は遠野の伝承園の庭にある記念碑に刻まれている。
 以上、「遠野物語」のあらましを紹介しました。理解してもらえばありがたい。


講師の著書を紹介
★関係図書の紹介
 ・ 「やさしい『遠野物語』入門」(高柳俊郎著、中学生、高校生に伝える目的の本、1冊100円、注文は遠野物語研究所へ【郵送料の関係で10冊くらいまとめて】
 ・ 「『遠野物語』を読み解く」(石井正巳著、平凡社新書、詳しく読む人向け)
なお、文庫本では初版本と拾遺の両方入ったものを推薦(新潮社版など)
★特定非営利活動法人 遠野物語研究所
 〒028−0523 遠野市中央通り 2−11
 tel/fax 0198−62−0809
 URL : http://www.tmkenkyu.com/

 『遠野物語』の不思議な世界、そして奥が深く広がりがある世界に近づき、その大切さを感じたお話でした。多数参加をいただいた皆さんも関心を寄せられ、好評な文化サロンとなりました。ありがとうございました。
(文:佐藤安彦 写真:庄司隆)