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第53回文化サロン 平成21年10月7日

「 後藤新平の壮快 〜 一直線の生涯 〜 」
ゲストスピーカー  梅森 健司 (うめもりけんじ) 
(後藤新平顕彰会会長)

第53回文化サロンのポスター
プロフィール
 梅森健司氏は1933(昭和8)年1月サハリン(樺太)コルサコフ(大泊)生まれ。1955(昭和30)年 岩手大学学芸学部を卒業後、岩手県内で小・中学校教員を38年間勤めました。
 教員を退職後、水沢市埋蔵文化財調査センターに学芸調査員として4年間、続いて後藤新平記念館に学芸員(2年)を経て館長として4年間勤務しました。平成16年からは後藤新平顕彰会の会長として顕彰活動に努めています。このほかに奥州市図書館運営委員長も勤めております。

ゲストスピーカーの梅森健司氏
 再開2回目の文化サロンは、奥州市水沢区から梅森健司さんをゲストスピーカーにお招きしました。梅森さんに、水沢に生まれ先見性と実行力で政治家として大きな功績をあげた後藤新平の一直線の生涯を紹介していただき、聴衆を惹きつけました。


後藤新平生家
1.手のつけられないガキ大将
 後藤新平が生まれたのは1957年(安政4年)で、今年が生誕152年になる。江戸の鎖国時代で、幕府に反抗しての「安政の大獄」があり、水沢でも562戸が焼失する大火災があった。大叔父に高野長英がいる。貧乏、屈辱に打ち勝つには学問しかない。そんな中で、水沢でも名の知れたガキ大将だった後藤は、10歳にして「論語」を学び、両親からの庭訓によって「訓誡和歌集」に親しんだ。父は留守家の小姓頭後藤実崇、母は御殿医の長女利恵。
 明治2年、廃藩置県で、胆沢県庁が置かれたが、朝敵の水沢人は役人にはなれず、肥後(熊本)からきたのが大参事安場保和と部下の阿川光祐(三重)だった。安場の次女和子は後に後藤の妻となる。後藤の才能を見込んだ安場は阿川に後藤を預け、福島県の須賀川に転勤した阿川が同地の医学校に進学することを勧めた。「医者になりたくない、政治家になりたい」といっていた後藤だが、明治6年、須賀川に向かう。


後藤新平
2.貧乏医学生
 正則(原書による課程)でなく変則(訳書による課程)の福島洋学校に入った後藤はなじめず、中退して帰郷したが、父と阿川に叱責され、医学校に転校してとことん勉強する。片道4里の道を歩き、1日17〜18時間、本を手離さなかった。髪はボサボサ、着物もごわごわで、破れたのを繕うこよりが雪のようになっていた。「下駄はちんばで、着物はぼろよ。心錦の書生さん」という歌まである。

3.板垣退助遭難事件
 明治9年8月、後藤は名古屋の愛知県病院に勤め、14年には愛知県医学校長兼病院長となった。24歳のときだが、あまりの若さに周囲から間違われるため、「トラひげ」を生やし始めたのだった。明治15年4月、自由党総裁の板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる。乞われて駆けつけた後藤の第一声は「ご負傷なそうですな、さぞご本望でしょう」だった。

大勢の参加者で埋まった会場
4.生物学原理は国策にも
 後藤はしばしば「生物学の原理」を強調した。生きるためには、それぞれの生命の元になるものがある。例えば、タイとヒラメの目。タイの目は右左、ヒラメの目は一方についている。ヒラメの目がおかしいからといって、タイの目にすることはできない。もともと生物学上の必要があってついているものなのだ。政治にもこれが必要だというのである。
 衛生行政にも、それは現れている。「衛生」という言葉を新語として初めて出したのは長与専斎で、明治6年のことだ。その前は「養生」が使われていたが、自分の命を養うだけではだめで、伝染病を防いで下水道などを整備しなければならないと、「荘子」からとった新語だ。内務省初代衛生局長には長与が就任していたが、実質2代目の局長に後藤がなった。

5.密室監禁された義侠人
 そして、本格的な衛生事業に着手しようとしたとき、相馬事件にかかわる。相馬事件とは福島県の旧相馬藩主・相馬誠胤にまつわる事件である。誠胤は精神異常であるとして邸内に監禁されていたが、お家騒動にまで発展。その中心人物に元藩士・錦織剛清がいた。剛清に会った後藤は、科学的な診察をすべきだと剛清を助けた。ところが、誠胤の急死後、剛清が毒殺だとして相馬家一族らを告訴、後藤も共犯の疑いで明治26年11月、拘引・収監された。そこで西川漸予審判事の心証を害し、2度も密室監禁に処せられた。
 西川判事が「恥ずかしくないのか」と言ったのに対し、後藤は「あなたこそ恥ずかしいと思いませんか」とやり返し、剛清をかばわなければならない義理があるのかとの問いに、「父母から訓誡和歌集を授けられたが、その中に“さかりをば見る人多し散る花の 跡を訪ふこそ情なりけれ”との歌がある。世間から捨てられてしまうときに恵んでやってこそ情けだと思いませんか」と答える。27年5月、東京地方裁判所は後藤に無罪の判決を下し、東京控訴院も原判決を支持し、12月に無罪が確定した。それから17年後、後藤が逓信大臣兼鉄道院総裁で、徳島駅へ行ったとき、一人の老紳士が近づき名刺を差し出した。見ると、「弁護士 西川漸」とあり、裏には「さかりをば…」の歌が書かれていた。


資料を示して
6.日清戦争直後の検疫
 明治27年からの日清戦争が翌年の春には終わりに近づき、帰還軍人のための伝染病防止、検疫事業が最大の懸案だった。後藤の生涯でもっとも忙しかったのが、この臨時陸軍検疫部の事務官長時代だった。検疫所は広島市の似島など3カ所に造られ、6カ月はかかるだろうといわれたが、似島では1日5000人を検疫、船舶687隻、人員23万人の検疫を2カ月で完成させた。後藤は1日3時間しか眠らず、43日間、床に入らなかったという。帰郷したときには、口も利けないような状態だったが、後藤は「口を動かし、体も動かす人だった」ということを銘記しておきたい。

資料を見ながら熱心に聴く参加者
7.台湾に新天地
 台湾は日清戦争で日本が占領した。初代総督は樺山資紀、2代目桂太郎、3代目乃木希典で、治安の確保すら不十分だった。明治31年、4代目総督の児玉源太郎が後藤をナンバー2の民政局長(後に長官)に起用。「医者出身の若造に任せるなんて」との声もあったが、後藤は「これまで軍が統治できなかったのは、生物学の原理すなわち慣習の重視が欠けていたからだ。日本の法制を押し付けてはだめだ」と考え、科学的調査をし、民意にこたえようとした。
 私が台湾を訪れたときは会えなかったが、実業家の許文龍さんから「台湾の歴史」という本をいただいた。その中で「今日、これほど繁栄した台湾の最大の恩人は後藤新平です。台北で幅40メートルの道路を4本も造るなど、先見の明があった」と述べている。アヘン問題も難しい課題だったが、厳禁はせず、漸近政策をとった。許可証を出し、多額の税金をとることでアヘン問題に成果を挙げた。ゲリラ問題では、投降政策をとった。降参した者には、お金を与えて、道路、鉄道、学校、病院を造らせる。こうした業績が現在の台湾人の後藤評価につながっている。


熱弁の梅森さん
8.鉄道の広軌化は新幹線で生きた
 日露戦争で日本は勝利を収め、いわゆる満州三頭政治=都督府、南満州鉄道株式会社、領事館(外務省)=が行われ、その満鉄初代総裁となったのが後藤だった。明治39年のことだ。鉄道は日本では狭軌だったが、東清鉄道などの広軌改築(4フィート8インチ半)に力を注いだ。後年、鉄道院総裁となった後藤は、国鉄幹線の広軌化を試みたが、原敬らの政友会に反対され、実現できず、広軌化は昭和39年の東海道新幹線まで待たなければならなかった。

9.電力は国力の源
 明治41年、後藤は自身としては初めての大臣、逓信大臣となり、さまざまな手法に取り組む。「電力は文化の源」と蒸気鉄道だった山の手線に電車を走らせた。電話の普及を推進するため、何度かけても度数にかかわりなく一定だった電話料金の度数制を推進した。それまで木製黒塗りだった郵便ポストを赤い金属製に変えたのも後藤の発案だった。

笑いを誘う
10.伏魔殿東京市に乗り込む
 大正9年、東京市会の議員は疑獄事件に巻き込まれ、砂利、ガス事件などで荒れていた。市会では「市長に後藤を」との声が上がり、投票の結果、64人中、63人が支持した。当時の市長の年俸は1万5000円。議員たちはやっとなってもらったのだから、5000円増ではどうかと打診したが、後藤は「たった2万円か。2万5000円にしろ」と増額を要求。そして、それが認められると、全額を市に寄付した。そのときの首相は原敬で、日本国、大都会のトップが同じ県出身というのは日本の政治史上ない。本県出身の総理大臣は4人、山口県は8人、東京都が5人だ。
 そして、後藤市長がやったのは調査、調査だった。「東京市改造8億円計画」がある。当時の東京市の予算が1億3000万円近い額だった。「たった8億円でいいのか。港湾など金がかかるから、あと5億円出すから、13億円で東京を救ってください」という人が現れた。安田善次郎である。ところが、大正10年9月、軽井沢で暗殺された。その2ヵ月後、原敬も暗殺され、計画は進行しなかった。日中露関係を重視した後藤は12年、ロシアの外交代表ヨッフェを招き、国交回復を打診。加藤首相と衝突して、市長をやめてまでヨッフェと私的に会談、日露復交を模索した。日本のために考えた人だ。

11.関東大震災復興計画
 大正12年9月1日、関東大震災が発生。翌日発足した山本権兵衛内閣の内務大臣となった後藤は、東京復興のため、帝都復興院をつくり、「40億円計画」を打ち出すが、それは「8億円計画」が土台となっている。計画は規模縮小を余儀なくされ、後藤も同年12月の難波大助による摂政の宮襲撃未遂事件、いわゆる「虎ノ門事件」で内閣が総辞職、後藤は復興の表舞台から姿を消す。


後藤新平「自治三訣」の色紙
12.処世の心得、自治三訣
 「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」という後藤の言った自治三訣がある。政治の倫理化運動をやった。「政治を動かすのは金ではなく、心だ」ということで、各地を遊説して回った。NHK初代総裁もやった。関東大震災のとき、朝鮮人虐殺があり、それはラジオなしの生活の情報不足があったからで、「これではだめだ」として、大正14年3月に第一声を挙げた。また、昭和16年、日本で最初の公民館は、正力松太郎が後藤との縁で水沢に建てた。今は後藤伯公民館と名付けられている。


講演を終えて
 今回も多くの皆さんのご参加をいただき感謝します。梅森さんには郷土の誇りの想いをこめて後藤新平を語っていただき、先見性と実行力で貫いた生涯、中でも1日17〜18時間も服装にかまわず勉強した貧乏医学生のお話が印象的でした。ありがとうございました。
(文:佐藤安彦 写真:庄司隆)