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第52回文化サロン 平成21年9月9日

「岩手が生んだ世界的物理学者・田中舘愛橘博士」
ゲストスピーカー  丹野 幸男 (たんのさちお) 
(田中舘愛橘会会長)
第52回文化サロンのポスター
第52回文化サロンのポスター
プロフィール
 丹野幸男氏は昭和2(1927)年、二戸市福岡生まれ。昭和22年、国立仙台工業専門学校(現東北大学工学部)を卒業。同年、土建業丹野組代表者に就任、昭和28年、(株)丹野組を設立し代表取締役社長に就任、同54年に同社の会長となり、現在に至っています。
 昭和27年から昭和62年までの間、福岡町教育委員、福岡町議会議員(3期)、二戸市議会議員(1期)、岩手県議会議員(2期)として活躍しました。
 昭和61年5月に田中舘愛橘博士を顕彰する「田中舘愛橘会」を郷里の教育関係者とともに設立、会長に就任して「田中舘愛橘記念科学館」の建設(平成11年)に尽力するなど顕彰活動に努めています。
ゲストスピーカーの丹野幸男氏
ゲストスピーカーの丹野幸男氏
 文化サロンは、今年4月から休止していましたが、ご参加の皆さんや関係機関のご支援をいただき再開しました。再開初回は、田中舘愛橘博士の出生地岩手県二戸市から丹野さんをゲストスピーカーにお招きして、郷土が誇る田中舘博士の業績やエピソードを次のように紹介していただきました。

大勢の参加者を前に
大勢の参加者を前に
1.田中舘博士の生い立ちと学習
 田中舘愛橘は安政3年(1856年)9月18日、陸奥国二戸郡福岡(現岩手県二戸市)で出生。5歳の時から和漢の書、7歳の時から武芸を学んだ。長じて私塾・会輔社で学び、明治2年(1869年)に盛岡に出て、南部藩の藩校修文所で文を修める。この時、原敬と席を同じくした。同5年、向学の志を抱いて東京へ出る。一家で土地、家を売り払って、6月11日から7月15日まで、徒歩や舟での上京だった。慶応義塾でまず英語を学び、授業料が高いので公営学校開成学校に転じ、同11年、東京大学理学部物理学科に入学した。
 物理学科の教師は山川健次郎先生、数学は菊池大麓先生、外国人教師はアメリカ人のメンデンホール先生(物理学)、イギリス人のユーイング先生(機械工学)で、田中舘はこの4人の教師から理学の基礎を学んだばかりでなく、深い師弟愛の関係を生涯続けた。当初は「政治家になって日本の国を治める」と言っていたようだが、開成学校で山川から「日本で遅れている理学の方を勉強せよ」と言われた。

2.大学卒業と留学
 明治15年(1882年)、大学を卒業してから直ちに準助教授に任命され、教鞭をとる。同21年、電気学及び磁気学修業のため、英国スコットランドのグラスゴー大学に留学を文部省から命じられ、ユーイング博士の先生であるケルビン博士に師事する。ケルビン博士は当時、世界的に有名な物理学者で、田中館博士はこの先生から多くのものを学んだ。田中舘は後年、ケルビン博士の死後、ロンドンに行けば必ずケルビン博士のお墓に詣でて、恩師をしのんだという。田中舘は同23年、ベルリン大学に転学。翌年帰国し、東京大学教授に任じられ、同時に理学博士号を授与された。
 ヨーロッパ留学は船で2カ月を要した。パリに立ち寄った時、代理公使で原がいた。ホテルに呼ばれ、ワインを飲み、牛なべをつつきながら、夜半過ぎまで政治論を戦わせた。田中舘は帰国後の同26年、盛岡出身の本宿宅命主計総監の妹、キヨ子と結婚、37歳のときだった。

田中舘愛橘博士
田中舘愛橘博士
3.地震の調査・研究
 明治24年(1891年)秋、名古屋地方に大地震があり、死者7200人以上の大惨事になった。大学の命で現地調査した田中舘博士は、この惨状に大変心を痛め、後に東京大学地震研究所の設立にも大きく寄与した。同36年、ストラスブルグ市で開催された万国地震学会議設立委員会に日本代表として出席し、英国のダーウィン博士、ドイツのリヒトホーフェン博士とともに副議長を務めた。
 地震のメカニズムは大分分かってきたが、予見にまではいかない。田中舘博士は子どものころ、地震があると、地面に耳をつけ、揺れ、響きを聞いたという。「おかしいわらしだな」と言われるほど、すべてに関心を持ち、研究心が強かった。
資料を見ながら
資料を見ながら
4.地磁気・重力・緯度の観測
 明治27年(1894年)、田中舘博士は、万国測地学協会の委員に任命された。日本が初めて、地磁気、重力、緯度変化等を国際的に共同研究することになり、同31年、独国のスツットガルト市で開催された万国測地学協会総会に出席した。その後も関係の国際会議に8回も出席し、外国の専門学者と親交を深め、調査研究の交換も行った。
 水沢市(現奥州市)に緯度観測所が新設されたのも、また、田中舘博士の門下生の木村栄が「Z項」を発見したのも、田中舘博士の指導、尽力によるものである。
 緯度観測所は北緯39度8分にある世界の6カ所、そのうち日本に1カ所設置することになり、田中舘博士は全国調査の結果、水沢を推薦、同32年、建設した。所長には木村が就任した。同34年、観測データをスツットガルト中央局に送ったが、「日本の観測結果はおかしい」との連絡があり、調査した結果、間違ってなかったどころか、「緯度変化に1年周期で変化する量成分、つまりベクトルの変化する事象」を発見、「Z項」と名付けた。木村は文化勲章を受け、水沢出身ではないが水沢名誉市民となった。

5.万国度量衡会議とメートル法
 フランスは1795年に世界に先駆けてメートル法を制定し、その後、1875年にメートル法国際条約が締結され、18カ国が加入した。田中舘博士は、明治40年(1907年)、万国度量衡会議のアジア代表常設委員に指名されて、初めてパリでの総会に出席した。以来、9回も同会議に出席して世界の大勢を見極め、「日本国においてもメートル法を導入すべきだ」と関係方面を説得し、大正10年に帝国議会において度量衡改正法案(メートル法)が通過、成立した。

6.航空発達の功績
 明治40年(1907年)にパリでの万国度量衡会議の総会中にフランスは、ラ・パトリーと命名した飛行船を会場の上に飛ばして見せた。会議に出席中の田中舘博士は、この試みを見て大変心を動かされ、日本の将来のために欧州各国の航空研究事情を調査して、翌年帰国した。そして、自らも大学の研究室に風洞をつくって、航空力学の研究を始めた。後に国際航空委員会に日本代表として10回も出席し、その都度、先進国の学者たちと交流を深めて、研究を進めた。
 同43年、日本最初の飛行場を所沢に選定したことも、また、大正7年(1918年)、東京大学に航空研究所が設置されたのも、田中舘博士の努力によるもので、「日本の航空の育ての親」と言われるゆえんである。所沢には現在、日本航空発祥記念博物館があり、田中舘も顕彰されている。
日本式ローマ字のスペルを説明
日本式ローマ字のスペルを説明
7.国際連盟知的協力委員会での活躍
 田中舘博士は、昭和2年(1927年)から昭和8年まで7年間、国際連盟知的協力委員会委員を務め、毎年、スイスのゼネバで開かれる委員会に出席した。世界から選ばれた12人の委員の中には、フランスのキューリー夫人やドイツのアインシュタイン博士がいた。1938年11月23日のラジウム発見記念に、田中舘博士は発見者のキューリー夫人に敬意を表し、日本からラジオを通して、フランス語で長文のメッセージを送っている。
 田中舘博士は、この知的協カ委員会で、ノーベル賞受賞者を含む世界一流の科学者たちと上手な外国語を駆使して、科学技術や世界平和四海同胞主義を論じ合った。ラジウム関係の理解・普及にも努め、旧福岡中でもラジウムの放射実験をしたことが「百年史」の中に載っている。

8.日本式ローマ字の発案と普及運動
 明治になって外国との交流が盛んになるに従い、日本語の発音を外国語に書き換えるために、ローマ字が用いられるようになり、米国人の宣教師ヘボンが来日してから、「ヘボン式ローマ字」が普及した。それに対して、田中舘博士は日本語の国際化のため、「日本式ローマ字」を発案して、教え子の田丸卓郎、寺田寅彦等と図り、「日本ローマ字会」を結成して運動を拡大した。日本式ローマ字は「あいうえお」が原点。「SHI」「FU」はヘボン式だが、日本式では「SI」「HU」となる。田中舘博士は和歌もいっぱいあって、昭和9年までに453首あるが、そのうち過半数がローマ字で、ローマ字の歌碑も二戸市内に3つある。
 昭和12年(1937年)に政府は、日本式ローマ字を基本としたロ一マ字つづりを公認して、これを使用するようにとの訓令を出した。しかし、昭和20年、日本占領軍司令官マッカーサーの命令によって、ヘボン式が復活したのは大変残念でならない。平成元年(1989年)、ISO(国際標準化機構)はローマ字の国際規格として日本式ロ一マ字を決めたが、なかなかうまくいかないのが実情だ。

博士が好んで書いたローマ字の和歌「ひんがしの浦風 よぎて福岡の 里にしめゆう 折爪の岳」
博士が好んで書いたローマ字の和歌
「ひんがしの浦風 よぎて福岡の 里にしめゆう 折爪の岳」
9.貴族院議員としての活躍
 大正14年(1925年)、田中舘博士は帝国学士院から推挙されて貴族院議員となり、昭和7年再選、昭和14年に3選された。戦後、帝国議会が改組されるまでの22年間、日本の科学者の代表として、科学技術の発展、外国との交流ばかりでなく、日本の教育、文化の向上のために活躍された。万国議員会議にも、日本代表として何回も出席している。
 田中舘博士は留学を含めて、明治21年(1888年)以降、22回も洋行し、出席した国際会議は68回にもなっている。そして、きょうの資料の表紙に書いたように、「地球には2つの衛星がある。1つは勿論月であるが、もう1つは日本の田中舘博士である。彼は、毎年1回地球をまわってくるのだ」と国際度量衡中央局長のギョーム博士を感嘆させたのである。
会場からあふれた聴衆
会場からあふれた聴衆
10.田中舘博士の晩年とローマ字のお墓
 田中舘博士は、昭和19年(1944年)4月に文化勲章を授与された。翌20年3月に郷里福岡町(現二戸市)に疎開。その後、東京の自宅は空襲で焼失した。戦後は郷里におられることが多く、国会の公務や学士院、学会の会議の都度上京しておられた。同26年、文化功労賞が制定され、田中舘博士もその受賞に浴し、福岡町では博士の偉大な功績を讃えて「名誉町民」に推挙した。本県出身の文化勲章受章者はほかに金田一京助、小野清一郎がいる。
 田中舘博士は同27年(1952年)5月21日、95歳の長寿を全うされ、今、郷里の二戸市にあるロ一マ字のお墓に眠っている。博士の95年の長い生涯においての勤勉努力、そして地球をまたに掛けて世界の科学技術、文化の交流発展に貢献し、活躍したその偉大な功績は永久に顕彰されることだろう。

11.田中舘愛橘会の発会と記念館の完成
 昭和60年(1985年)、田中舘博士を顕彰するための会をつくろうと郷里の教育関係の人たちが協議を進め、翌年5月21日の博士の命日に田中舘愛橘会が発会した。毎年、その日に墓前祭を行い、中央から博士ゆかりの先生を招いて記念講演を催し、また、博士の関係書籍を復刻して、広く配布した。最終の目的は記念館を建設することであった。
 その後十数年に及ぶ運動が効を奏して、平成11年(1999年)9月18日、博士の誕生日に合わせて、21億円かけた田中舘愛橘記念科学館がオープンした。複合施設となったのは特別助成の関係で、「科学館」との名称となった。オープン記念講演は博士の“孫弟子”でもある岩手県立大学の西澤潤一学長にお願いし、高校生を含む1200人の聴衆に多大の感銘を与えた。

12.没後50年の記念事業と文化人切手の発行
 平成14年5月21日が、田中舘博士の没後50年に当たるので、二戸市と田中舘会が一緒になって記念事業実行委員会を立ち上げ、岩手県と二戸市から多額の助成を受け、下記のような多彩な事業を催すことができた。(1)記念講演会【2】国際シンポジウム(2)ミュージカルAikitu(4)児童生徒科学研究発表県大会(5)特別展(6)ローマ字歌碑建設(7)追悼文集の編集。
 また、郵政省では田中舘博士の文化人切手の発行を決め、同14年11月5日に全国郵便局の窓口で売り出されたことは、没後50年記念に花を添えたものと喜びに堪えないところであった。全国で900万枚売り出された。本県出身の文化人切手は、宮沢賢治、新渡戸稲造に次いで3人目である。

講演を終えて
講演を終えて
 再開初回の文化サロンにも多数の皆さんのご参加をいただき、盛会裏に開催することができました。そして田中舘博士の偉大さをあらためて実感する機会となりました。関係の皆さん、ありがとうございました。
 なお、文化サロンは、当ホームページの情報ひろばでお知らせの通り、本年度はあと3回開催の予定です。皆さんのご参加をお待ちします。
(文:佐藤安彦  写真:庄司隆)