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第50回文化サロン 平成21年2月19日

「 盛岡藩雑書の世界 」
ゲストスピーカー 細井 計氏
(東北福祉大学特任教授、岩手大学名誉教授、文学博士)
第50回文化サロンのポスター プロフィール
 細井計氏は1936(昭和11)年7月、群馬県生まれ。昭和42年3月東北大学大学院文学研究科、博士課程国史学専攻終了後に日本学術振興会奨励研究員となりました。その後、東北福祉大学講師・助教授、岩手大学助教授を経て昭和51年10月に岩手大学教授となり、平成14年3月定年により退官となりました。
 その間、東北史学会副会長、岩手史学会会長などの要職を務めてきました。主な著書としては、『近世の漁村と海産物流通』(河出書房新社)、『盛岡藩雑書』(第1巻〜第15巻、熊谷印刷出版部)、『盛岡藩家老席日記雑書』(第16巻〜、東洋書院)などがあります。
ゲストスピーカーの細井計氏
藩の呼び方を解説
藩の呼び方を解説
語りかける細井氏
語りかける細井氏
 今回の文化サロンは、細井さんに盛岡藩政の研究・調査に不可欠な第一級史料である盛岡藩「雑書」の世界を紹介していただきました。
 最初に「藩」の呼称について解説しました。1) 城地(盛岡藩、仙台藩など)、2) 大名(南部藩、伊達藩など)、3) 旧国名(薩摩、長州、土佐、肥前など)の3通りがあるが、原則として城地(城があった地域名)で呼び、薩摩藩、長州藩などは歴史用語として定着しているので例外として認める、のが合理的でふさわしい。大名(藩主名)では、八戸藩、七戸藩も南部氏が藩主であり、ほかにも同様の例があり混乱する。また、江戸時代は「藩」という公称はなく○○領と呼んでいた。

「雑書」 (盛岡藩家老席日記)について
 「雑書」は盛岡藩の家老席において書かれた日記で公的な記録。原本の表紙に「雑書」と書いてあるのでこのように呼ばれている。伝存するのは1644(寛永21→正保元年)年から1840(天保11)年まで197年間分190冊で盛岡中央公民館に所蔵されている。徳川家光将軍の晩年から江戸末期までの時代の日記である。
 しかし、書かれたはずの14年分が欠本しており、中でも非常に残念なのは1664(寛文4)年の欠本である。この年に三代藩主南部重直が跡継ぎを決めずに死去した。普通でいうとお家断絶になるところ、先代(信直、利直)が徳川家に忠誠を果たしたと認められ、重直の弟の重信(8万石)と直房(八戸藩2万石)に分割して相続が認められた。雑書があればこのへんいきさつが分かるはずだ。
 もう一つは1686(貞享3)年の日記。この年の3月に岩手山の大噴火があったので日記があればその状況が分かるはずである。

記録の内容
 毎年1月1日から12月31日まで書かれているが、年によっては欠落もある。必ず日付、天候、出席した家老の名前を記録している。(当番の家老が判断して書記が書く)
 盛岡藩の出来事が中心であるが、時には将軍家、他藩の記事も散見する。各年とも正月の儀式からはじまり、五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)を経て歳暮にいたっているが、その間の政治、経済、社会、文化などを始め、庶民の生活までが網羅されている。
 具体的な例としては、諸法令、参勤交代、藩主家の相続、役人の人事異動、藩士の家督相続・婚姻・嫡子願、改暦、改名、神社仏閣の祭礼、百姓一揆、凶作・飢饉、火事、風水害、酒値段の公布などで、領内のあらゆる出来事が記録されている。
資料を確認しながら
資料を確認しながら
武士の区分、南部家の系譜を板書して
武士の区分、南部家の系譜を板書して
基本的な史料
 したがって、盛岡藩史研究の上で最も基本的な史料となっている。この雑書は古文書で一般の人向けに解読して欲しいとの要望で、盛岡市教育委員会・中央公民館が二十数年前から『盛岡藩雑書』(第一〜第十五巻)、『盛岡藩家老席日記雑書』(第十六巻〜)を刊行している。昨年3月に21巻(寛延2年〜同3年〈1749〉)を刊行、今年の3月に22巻を出版の予定だが、まだ90年分ほど残っている。
 細井さんは第四巻から責任校閲を担当されている。

雑書の記事から
 7代藩主利幹と8代利視の時代の記事をピックアップして紹介していただきました。

1) 火事の届出
 ○享保年五月十六日条(1721)
  • 七戸新町赤沼権内家より去る十二日丑ノ刻出火、焼失左の通り、
  • 九十八軒 内、拾壱軒御給人家、六軒御足軽家、壱軒寺、八拾軒町屋、
    右の通り焼失の由、御代官野辺地忠左衛門より申し來る、百軒より内にては、公儀へ御届けこれ無く候えども、心得のため、御留守居どもへも申し聞かせ置き候よう、楢山弾正へ御飛脚便申し遣わす、
  •  この記事から100軒以上が焼失した場合は、公儀(幕府)へ届けることになっていたことが分かる。

2) 改名
 ○享保7年六月三日条(1722)
  • 江戸において、安藤対馬守(信友)様御老中(ロウジュウ)仰せ付けられ候につき中野対馬儀(盛岡藩家老)、筑後と相改め申すべき旨仰せ出だされ候段、御飛脚にて申し来る、御役人どもへこれを申し渡す、右につき、・・・
  •  この記事は、安藤対馬守が老中になったので同名の中野対馬は筑後と改名した連絡を受け役人など関係者に伝えたことを記している。さらに中野対馬の名前の高札(法令などを周知する立て札)の書き換え役を任命した記事もある。
     名前は、幼名、元服名、家督相続名、隠居名と変えたが、改名は殿様の命令による場合と殿様の許可を受けて自ら変える二通りあった。
多数の参加者で会場は満席
多数の参加者で会場は満席
板書を見て聞き入る
板書を見て聞き入る
3) 上げ米の制
 ○享保七年七月十二日条
  • 御上げ米の儀、当年は半分と御書付けに見え候の間、此方様御上げ米五百石の積り御並方承り合い、秋中江戸にて御上納のはずの旨、これまた申し来る、御役人どもえこれを申し渡す、右御書き付けの写、左の通り、・・・
  •  幕府は、財政が逼迫し享保七年に至り数百人も首にしなければならない状況になり、恥を偲んで1万石以上の大名に1万石につき百石を差し出す制度(1722年〜1730年)とした。これにより参勤交代で江戸に滞在する期間が1年から半年に短縮された。
     8代将軍吉宗は享保7年から幕府の財政再建のため一時凌ぎの「上げ米」の制度と、根本的には農村政策と商業政策を進めて成功した。

4) 上の橋、紙町の橋
  • ○享保八年六月廿四日条(1722)
     上の橋の架け直しに際して「御普請奉行」任命と着工日時を決めた記事に、「上の橋」と「紙町橋」が使われている。これは訓読みが同じであるので混同された例。「上の橋」が正しいが紙町に行く橋でこれも間違いとは言えない。

5) 農民にも苗字
  • ○享保十三年五月十四日条(1728)、同年五月二十二日条
     三戸御代官所きがね橋、五郎助が「先達てより度々借し上げ金仕り」(寄付)し、この春に二百両を寄付したので、御給人(士族)に取り立てられた際、「私先祖より松尾の名字付け来り候間、右名字成し下されたき旨」願いでて認められた。
     農民も昔から名字をもっていたが公的に使うことが許されていなかったのである。

6) 岩手山の噴火
  • ○享保十六年十二月廿五日条(1731)、同年十二月廿七日条
     25日の記事に「今夜丑の刻、岩鷲山北の方峯通し炎焼」とあり、27日の記事では、沼宮内「御代官所平いそ(笠)村肝煎ども相出し候書き付け」(報告書)の写しで噴火の様子を記している。「七時過(午前四時)より木立と茅野境より焼き(噴火)上り申し候にて、段々砂子焼き崩れ申し候処、・・・」とある。この噴火で焼き走り溶岩流が発生した。
「盛岡藩 雑書」の刊行本
「盛岡藩 雑書」の刊行本
「盛岡藩雑書」開いて説明
「盛岡藩雑書」開いて説明
7) 五百羅漢堂
  • ○享保十九年五月十四日条(1734)
     報恩寺から、五百羅漢像を入れる御堂建立に必要な大材木入用のため、正伝寺境の松木3本の払い下げ願い出があり、これを認め跡地に小松なりとも植えおくよう伝えた記事。そして翌年8月19日には完成して五百羅漢入仏に際して野々村ほか1名に警護を仰せ付けた記事がある。

8) 御国風(おくにぶり)を守ること
  • ○元文六年一月十三日条(1741)
     参勤交代などで江戸に行って国許に帰ると「御国の言葉・風儀ともに笑い申すように相心得申し候」とあり、これに対して8代藩主利視は、江戸者は御国言葉・風俗を笑っているが、気にすることなく「御国の儀は御国風を相守り、取り失い申さざるように致し候儀・・・」と、地方の方言や風習は大切せよと言っている。最近になって方言や地方を大事とに言われるようになったが、利視公は既にこの時代に訴えていた。

9) 長崎御用銅
  • ○寛保二年八月三日条(1742)
     尾去沢銅山の出銅を壱ヶ年百万斤ずつ長崎御用銅に送ることになっていて、百万斤の内七十万斤はその年内に、三十万斤は翌三、四月大坂着で送るよう申し付けた。
     当年の七十万斤は、秋田能代よりの出船と石巻(盛岡から北上川の船便を経て)より積み登せた記事があり運搬の経路が分かる。

10) 環境衛生に注意
  • ○寛保三年七月四日条(1743)
     8代藩主南部利視から、書き付で仰せ出された記事。「我ら儀、少年のころより殊のほか蚊負け致し候、近ごろ別して負け強く、刺され申し候あと出来物のように相成り申し候て、殊のほか難儀致し候、右に付き、城中無益の草はえ申さず候よう刈り取らせ、水道(ほり)の払いよく、古い水たまり申さず候ように、もっとも穢敷物(けがらわしきの)の類、城中に少しも留め置き申さざるよう頼み入り候、」とあり、利視公の難儀のほどが窺える。

 以上ほかに、親の死去に伴う家督相続と改名の願い出を認めた記事の紹介もありました。また、武士の区分(大名は1万石以上でそれ以下は旗本と御家人に区分され旗本以上が将軍に謁見できた)や元号の読み方なども解説していただきました。

拍手をしてお礼
 今回は多数の方に参加していただき、50回の節目にふさわしく盛会となりました。そして「盛岡藩雑書」に対する関心の高さと存在の意義を改めて認識した次第です。ありがとうございました。
(文:佐藤安彦、写真:熊谷正敏、庄司隆)