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第49回文化サロン 平成21年1月15日

「野村胡堂 ― その魅力と生涯を語る」
ゲストスピーカー 野村晴一氏
(野村胡堂・あらえびす記念館館長)
第49回文化サロンのポスター プロフィール
 野村晴一氏は1937(昭和12)年11月24日、紫波郡彦部村(現紫波町)生まれ。県立盛岡第二高等学校を経て昭和33年3月に県立農業講習所を終了後、岩手県庁に勤務。昭和35年退職後は農業に従事しましたが、昭和46年6月からはいわて紫波町農協に勤務するようになりました。
 胡堂の弟の孫で、生家を継いでいる関係もあり、平成6年7月から野村胡堂・あらえびす記念館準備室に勤務され、平成11年1月に館長に就任、現在に至っています。
ゲストスピーカーの野村晴一氏
説明資料を前に語る野村さん
説明資料を前に語る野村さん
 今回の文化サロンはあいにく雪が降る天候となり、ゲストスピーカーの野村さんには盛岡から20キロほどある紫波町彦部から真っ白な雪道を運転して来ていただきました。
 野村さんは、記念館館長というより野村胡堂の弟の孫がコタツを囲んで話して行ったという感じで聞いて欲しいと言われ、和らいだ雰囲気で始まりました。
 野村胡堂・あらえびす記念館は、胡堂の生家をはじめ田園風景と奥羽の山並みを望む見晴らしの良い場所に、岩手県紫波町が建設し運営管理しており、平成7年6月にオープンしてから今年で15年目になるとの紹介がありました。

ペンネーム「胡堂」と「あらえびす」と生涯の事績
 野村胡堂の本名は野村長一(おさかず)で、「胡堂」は新聞社時代からの筆名で、「あらえびす」は音楽評論家のペンネーム。「胡」には野蛮という意味があり、「あらえびす」も野蛮な東国人をさす言葉で、文化の低い東北の出身ということから名付けたそうです。
 長一は、盛岡に下宿していた盛岡中学時代、親の仕送りは殆ど本代に使い、衣服も破れたままで底が抜けた靴、散髪は半年に一度という、まさに弊衣破帽の姿をしていた。この姿を同級生の金田一京助が「あらえびす」と評したことからペンネームにしたとのこと。
 生涯の主な事績は四つに大別される。
1.本職の新聞社での仕事 2.西洋音楽の評論活動 3.作家としての執筆活動 4.野村学芸財団の設立

胡堂と交流した人々を指して
胡堂と交流した人々を指して
生い立ち
 野村長一は明治15年、現在の岩手県紫波町大巻に長四郎の次男として生まれた。小学校のときは成績が悪くいじめられていた。そんな中、父親の蔵書を読み成績が良くなり、いじめられていた子供たちに読んだ本の知識を話して聞かせると、逆に大切にされるようになった。しかし、読書に熱中してまた成績が下がり(50人中48番)、父親が心配して蔵書を売ってしまった。
 盛岡中学校(現盛岡一高)に進む。同級生に金田一京助、小野寺直助、田子一民、郷古潔、及川古志郎、上級に米内光政、一級下に石川啄木が在校している。後に日本を動かした錚々たる人物たちである。
 中学校を卒業して上に進むときに本人は物書きか絵描きになりたかったが、父親は地域に必要な医者になることを望んだ(長男とその母親をお産の事故で亡くしているので)。しかし、本人は小学校時代いじめられ血を流しているので血を見る医者を嫌った。母親のとりなしで法学系に進むことになり、2年間猛勉強して旧制第一高等学校に合格した。中学時代の成績が良くなかったので同級生から驚かれた。
聞き入る皆さん
聞き入る皆さん
 第一高等学校から東京帝国大学法科大学仏法に入学。ところがあと一年で卒業というときに父親が地域の農家収入増加のために始めた仕事に失敗して破産し、援助が出来なくなった。そこで結婚だけはさせたいと、当時の習慣で決めていた許婚でなく、長一が好きだった同郷の橋本ハナさんとの結婚を許した。ハナさんは士族の娘で平民との結婚は難しかったが、なんとか承諾をもらい、金を工面して上京、蕎麦屋の2階で結婚式を挙げた。お客さんは金田一京助さんとハナさんの友人長沼智恵子さん(後の高村光太郎夫人)の二人だけだった。
 父親はその4ヶ月後に過労で死去。学費のため友人のノート整理や芝居小屋で絵を描いたりして稼いだが、授業料を滞納して卒業まであと3ヶ月というときに大学を除籍になった。

新聞人として活躍
 大学を退学になり紹介する人があって、報知社(後の報知新聞社)の面接を受けて入社。一ヵ月後もらった月給は20円、車代5円だった。同僚は40円、大学を卒業して公務員になれば55円の時代。安く見られたと肩を落として帰ると、ハナさんに「仕方がないでしょう。お仕事で認めていただいたら」と言われ精勤して3年後には係長、6年後には部長に昇進した。
 当時の総合新聞で長一が初めて取り上げた記事が二つある。その一つは、西洋音楽の情報を掲載したこと。もう一つは「時事川柳」で、この言葉を作ったのは野村長一。会社にこの提案をしたところ川柳などと猛反対されたが、自分が選者になり責任をもつと言い実行した。その結果、この音楽情報と時事川柳が大変な評判になり、東洋一の新聞売り上げとなった。「報知新聞に野村部長あり」と称される。新聞社は60歳で辞職して執筆活動専念する。

銭形平次の生みの親は時事川柳の神様だった
銭形平次の生みの親は時事川柳の神様だった
西洋音楽の評論活動
 第一高等学校に入学後に日比谷音楽堂で演奏会を聴いてから西洋音楽が好きになった。当時西洋音楽を聴くにはレコードに頼るほかなかったが、非常に高価で昭和7年ころ、1枚20円(米1俵8円20銭)であった。お金を工面しながら高価なレコードの収集を続けた。ある時は子供の服を質に入れて買ったことも。そのときは子供のなく声を聞いて家に入れなかったという。収集が出来たのも奥さんの理解と応援があってのことだった。
 購入すると一人ではもったいないと同好の士を自宅に呼んで一緒に聴いた。さらに日本で初めてのレコードの専門雑誌を友人と出版し評判を呼んだ。また、レコードコンサートも好評で、全国各地の要望に応えて、新聞社勤務の合間をみて飛び回って開催した。
 西洋音楽を日本に普及させたのは「あらえびす」だが、それは目と耳からの独学によるものである。評論は非常に読みやすく、小学6年生でも分かるが内容は立派なものだった。
野村家が揃った最後の写真
野村家が揃った最後の写真
作家としての執筆活動
 野村家には4人の子供が授かるが、長女は17歳で、長男は東大2年生のとき、次女は24歳で亡くした。そんな悲しい中、また経済的に苦しい状況でも明るく明るく生活する奥さんに支えられ、46歳から小説を書き始めた。最初は少年少女もので西洋音楽の情報を取り入れた小説を書き評判が良かった。
 昭和6年(49歳)文藝春秋社から「オール読物」を創刊する際、捕物小説の依頼で書いたのが、銭形平次捕物控。
 題名の「銭形」は、錢高組のマークからヒント得て、「平次」は、自分は平民の次男であることから名付けた。少年時代に読んだ「水滸伝」に出てくる「石つぶて」で敵将を次々倒す小石投げの名人を思い出して、四文銭を投げる目明しを思いついた。
 4月に発表すると評判を呼び、11月には映画になる。終戦の昭和20年に休んだが昭和32年に視力の衰えで筆をおくまでの27年間で383篇を執筆した。そのうち、映画になったのが72篇、テレビでは18年間で888本放映され、世界一の長寿番組の記録をもっている。
 書き始めて間もないころ、「オール読物」は思い通り売れ上げが伸びないので、他の執筆者を含めて交代させたいとの申し出を受けたが、読者の評判が良いので原稿料なしで書かせて欲しいと言って継続した。

筆をおいて
 執筆のために集めた古い江戸の地図など多くの資料は、社会から預かったものだからと、東京大学の資料室や岩手県内の図書館などに寄贈した。2万枚のレコードのうち7千枚は東京都に(後に胡堂記念館に寄贈される)、残りは住んでいた地元の小学校に寄贈(後に火災で焼失)。レコード枚数は多い方ではないが、ある音楽の先生は、系統だてた蒐集品で世界的にも5本の指に入る貴重なコレクションだと言った。

胡堂作品のポスターを指して説明
胡堂作品のポスターを指して説明
野村学芸財団の設立
 自分は貧乏のため学業を途中で断念した。そのような子供が出ないようにとの思いで、返済義務のない育英奨学金と学問芸術の研究助成を目的として、昭和38年に野村長一所有のソニー株式、約1億円の寄付によって設立された。
 昭和38年2月文部省から財団設立の許可証をもらって、自分の仕事は終わったと喜んだが、その2ヵ月後4月14日、肺炎のため80年の生涯を閉じた。人生の前半は貧乏での苦労、後半では子供3人を亡くす悲しみを体験した人生であった。
  • ソニーの創業者の一人である井深大の母親は妻ハナさんの同僚という関係があり、父親を亡くした井深の学業を援助し、会社設立の時も不足した資金5万円を出資した。野村はこれを忘れていたが、ソニーを育てたのは野村胡堂と言われている。
記念館の写真を指して
記念館の写真を指して
父親 長四郎
 父親長四郎は村会議員、彦部村、長岡村の村長を務めた。読書家で人望があり、教育熱心な人だった。子供好きで近所の子供を集めて昔話を聞かせていた。そのため子供が使いやすい座敷の奥に便所を作っていた。長一には弱い者への思いやりの教えもしている。
 盛岡中学に入学してから亡くなるまで長一に出した手紙が319通残っている。第一高等学校時代、長一から3円の送金依頼に対して農業収支の厳しさなどを詳細に書いて「待ってくれ」という手紙や破産したときに「子供たちに迷惑をかけることになった」と、詫びた手紙がある。この窮状を見ていた弟が貯めた2円ほどのお金を、父親に隠して使ってくれと、書き送った手紙も残されている。

記念館のリーフレット
記念館のリーフレット
野村胡堂・あらえびすを支え育てたのは妻ハナ
 妻ハナは学問的にも出来た人で人柄も立派であった。レコード蒐集のための経済を支えるために、私も働きましょうと言って日本女子大の先生をしている。
 銭形平次は383篇も書いたが、そのタネを探すのが大変で行き詰ると胡堂がもう田舎に帰ろうと。ハナさんは、分かりました、ただし約束した原稿を書いてからにしましょう、と。それで野村は思い直して挑戦して書き続けた。誘導するのが上手な人だった。
 田舎から訪ねた親戚の子供たちが遠慮して残した料理は、翌日料理し直して食べていた。田舎の言葉で話してくれて、近くのおじさん、おばさんという感じで親しまれた。
 日本女子大の学長に推薦され断っているが、同大学の60周年事業資金に必要資金の3分の1の5千万円を寄付している。自分の私生活では、食材は少しでも安いものを買うつつましい生活をしている。自分に厳しく他人に優しい人だった。

 最後に野村晴一さんは、「胡堂と支えた人々や私生活を知った上で、銭形平次などの作品を読んでもらうともっと面白くなると思う。テレビでは銭形平次の味は出ていない。また、記念館でいろいろな資料にも触れて欲しい」と呼びかけた。

 野村胡堂・あらえびす記念館
  〒028−3315岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193−1
    TEL:019−676−6896
    URL:http://kodo.or.tv/
記念館のリーフレット
記念館のリーフレット

 野村晴一さんは、まさに炬燵を囲んでお祖父さんを語るがごとく、あまり聞くことのできないエピソードをまじえて、「野村胡堂・あらえびす」を紹介していただき、その魅力に引き込まれました。雪の中をお出でいただいた野村さん、ご参加の皆さん、ありがとうございました。
(文:佐藤安彦 写真:熊谷正敏)