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第47回文化サロン 平成20年11月20日

「天正遣欧・慶長遣欧使節のイタリアルネサンス」
ゲストスピーカー 赤澤 義昭 氏
(岩手県立博物館友の会会長)
第47回文化サロンのポスター プロフィール
 赤澤義昭氏は元々、岩手県内の高校で国語を教えていました。50代後半に県立博物館学芸部長に転じた際、ルーブル博物館から学芸員の訪問を受けました。そのことがきっかけとなり、海外の博物館事情を学ぶためにヨーロッパを巡りますが、なかでもイタリア美術に魅了され、以後何度も出かけることになりました。
 何回目かの美術行脚のとき、これらの美の殿堂を最初に見た日本人はだれかと考えました。浮かんだのは、天正遣欧使節の少年たちと慶長の支倉常長一行の使節でした。それから彼らがどんな思いで古都の美術に接したのか、考えながらイタリアを歩き続けているといいます。
ゲストスピーカーの赤澤義昭氏
フィレンツェ遠望(ミケランジェロ広場から)
*フィレンツェ遠望(ミケランジェロ広場から)
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ピサの斜塔
*ピサの斜塔
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スペイン階段(ローマ)
*スペイン階段(ローマ)
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 赤澤さんがイタリア美術に魅せられているのは次のようなことからと話された。ルーブル美術館、大英博物館などは鑑賞対象が建物の中の展示物だけだが,ローマではそれだけではなく、その建物自体、道路、川べり、街並みなどにも惹きつけられ、大聖堂に入っても天井、柱、甍(イラカ)に圧倒され、考える余裕がない状態で帰国して落ち着かない日々が続きました。
 イタリアルネサンスの建造物、彫刻、絵画は物語をもっていて、単なる鑑賞でなくそれを読む世界であり、この態度で接しないと理解ができない。この読む世界に挑戦してみようと年に2回くらいイタリア通いを続けている。
 そして天正遣欧使節と慶長遣欧使節の人たちがイタリアで何を感じたかも興味が湧いた。しかし、日本側には資料がなく現地では資料の所在、言語の問題などでこの検証は非常に難しい。また、天正使節はイエズス会が中心、慶長使節はフランチェスコ会に関係があり、両者は勢力争いをしていたため、神父たちはお互いに本当のことを言ってくれない。
 ローマ中心のカソリック対イギリス、フランスのプロテスタントの抗争もある。日本の鎖国やキリシタン禁止令は外国の力をそぐためという単純なものでなく、また、日本の為政者が判断したのでなく、外国でのカソリック対プロテスタントの抗争の大きな流れに関係し、複雑なものがある。

天正遣欧使節(右上 伊東マンショ、右下 千々石ミゲル、左上 原マルチノ、左下 中浦ジュリアン 京都大学所蔵)
*天正遣欧使節(右上 伊東マンショ、右下 千々石ミゲル、
左上 原マルチノ、左下 中浦ジュリアン 京都大学所蔵)
天正遣欧使節
 九州のキリシタン大名(大友宗麟、有馬晴信、大村純忠)によって12〜13歳の少年4人(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)がローマ教皇のもとに派遣された。
 使節一行は1582年(天正10年)2月に長崎を出航して、インド、ポルトガルのリスボン、スペインを通りフィレンツェを経て1585年3月にようやくローマに到着。ジェズ教会(イエズス会母教会)を宿所として同年6月までローマに滞在、その後イタリア各地を回りほぼ同じコースを通って1590年7月に帰着する8年半におよぶ長期の旅程であった。
 少年たちが訪ねた各地に残したものは殆どない。余計なことは言うなと言われていたので。少年たちの発言として現地の人が書いたものが残されているが、これは自分たちのイエズス会がいかに素晴らしいかを宣伝のために創作したもので信憑性が疑われる。
支倉常長といわれる肖像(ローマ、ボルゲーゼ美術館所蔵)
*支倉常長といわれる肖像
(ローマ、ボルゲーゼ美術館所蔵)
慶長遣欧使節
 伊達政宗によって派遣された支倉常長一行(180人余人)は、1613年(慶長18年)10月、サン・ファン・バウティスタ号で牡鹿半島・月ノ浦を出航し太平洋を横断、陸海路でメキシコ、スペインを経て1615年10月ローマに到着。アラチェリア聖堂(フランシスコ会名刹)を宿所として翌年1月まで滞在した。しかし、謁見などに長い間待たされたので各地を回って観る機会は少なかった。復路はフィレンツェなどを経て往路同様太平洋を横断してルソン経由で、出発から7年後の1620年10月に帰朝した。
 なお、常長のサインは「長経」になっていて、その理由は分からない。明治4年の岩倉使節団がベネチィアで見せられた資料に「長経」のサインがあったという。

遣欧使節の目的
 天正使節の目的は、少年たちにカトリック世界が広く、深くいかに素晴らしいかを見せ、日本に帰りその優越性を少年たちに紹介してもらうこと、また自分たちの会(イエズス会)は世界に布教しているが、最果ての日本にもおよび、しかも少年たちも洗礼を受けて神に帰依していることを紹介し、自分たちの力がいかに強いかをヨーロッパの人たちに示す狙いがあった。
 一方、慶長使節の目的は、スペイン領メキシコとの通商とローマ法王からキリスト教布教のために司祭派遣の依頼であったが、それよりもキリシタンの持つ文明的技術を広めてもらうことにあった。

帰朝後の状況
 天正使節の少年たちの帰朝後、千々石ミゲルは棄教(還俗妻帯)、伊東マンショは病死(1612年)、原マルチノはマカオに流刑(1614年)、中浦ジュリアンは穴つり刑(拷問)で殉教(1633年)している。
支倉常長像(仙台市博物館所蔵)
*支倉常長像
(仙台市博物館所蔵)
 慶長使節の支倉常長は帰朝後存在そのものが問われた状態、本人は帰朝2年後病没し、その子常頼は斬罪、召使3人も殉教し、まさに無残と言える。
 常長が和紙に毛筆で書いたという19冊の冊子を、明治10年に見た人がいたと言われているが、その後は行方不明である。この資料が発見されると常長研究の道が開け、正当な評価が出来るだろう。発見され目の当たりにしたいものと強く願っている。

 両使節が成功であろうと失敗であろうと、そこには多くの人間ドラマがある。これを明らかにしていかねばならないと思う。天正使節の8年半の旅程、殉教した中浦ジュリアンなどのドラマもある。また、慶長使節に離脱者(5人が判明)がいる。メキシコでその子孫が営々と文化を築いている。離脱にはいろんな事情がある筈でそこにもドラマがある。
スライド映写に見入る
スライド映写に見入る
イタリアルネサンス美術
 ルネサンスの背景の一つに「対抗宗教改革」があげられる。ルターの宗教改革(プロテスタント)に対抗したカトリック側の教会改革運動である。この中でラテン語や聖書が読めなくとも見れば分かる宗教画や宗教美術品を次々に作り、これで布教をした。こうして宗教画や宗教美術品が増えていった。

 ●ルネサンス美術の成立には次のような関わりがある。
  1. カトリック教会の規範があり、絵画の色の表現や顔料の量などが定められていた。
  2. 古代エジプト美術、ギリシャ神話、ローマ神話が美術の世界に入った。
  3. 伝説、説話が美術品の中に盛り込まれた。
  4. 「転身物語」(オウィディウス〈前43〜後17頃〉の詩集)ギリシャ神話にからみ動物―牛になったりするなどの物語。
  5. 「黄金伝説」(イタリア・ジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ〈1230頃〜98〉が書いた聖人の伝記集)大変数多くの伝記の記述があり〈日本語で全4巻〉これを抜きにしてイタリアルネサンスは語れない。聖母マリヤが天に召されたことなど聖書にないことが書かれていて、美術家たちは自分なりにこれらを加工して作品にした。
  6. 「聖書 外典偽典」(新訳・旧約聖書から外された人物たちのことを人間臭く書いたもの。聖母マリヤの処女懐胎、キリストの生誕などが書かれており、中には読むに耐えない記述もある)
  7. パトロン、お金を出す依頼者があって寄進者の意向(契約)で作品が変更(大きさなど)されることもある。
  8. 工房があってここが中心となり職人(芸術家ではない)の技によって制作された。工房は彫金や石も削り絵も描くなど何でもやるのが仕事。有名な画家の絵でも自分で描いたのもあるが、工房で仕上げたのも結構多い。(ダ・ヴィンチ、ミケランジェロも工房の職人として技を磨いた)
  9. 契約は細部にわたっている。どんな色・どの値段の絵の具を何グラム使うか、作品の大きさ、納期など。
スライド映写による紹介
 赤澤さん撮影の写真や天正使節の少年たち、慶長使節の支倉常長の画像、両使節も見たであろうイタリアの風景やルネサンス美術の「受胎告知」「ダヴィデ」「アダムの創造」「最後の晩餐」などを解説(読む)して紹介していただきました。
受胎告知(サンマルコ美術館 フィレンツェ)
*受胎告知
(サンマルコ美術館 フィレンツェ)
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ダヴィデ(ミケランジェロ フィレンツェアカデミア美術館)
*ダヴィデ(ミケランジェロ フィレンツェアカデミア美術館)
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ピエタ(ミケランジェロ、ローマサンピエトロ寺院)
*ピエタ(ミケランジェロ、ローマサンピエトロ寺院)
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サン・ピエトロ寺院のクーポラ(ローマ)
*サン・ピエトロ寺院のクーポラ
(ローマ)
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ザビニの女の略奪(ジャン・ボローニャ作、フィレンツェ)
*ザビニの女の略奪(ジャン・ボローニャ作、フィレンツェ)
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 遣欧使節の長期に亘る異国の旅、そして帰国後の状況を思うとき、赤澤さんが強調された人間ドラマに興味が湧きます。イタリアルネサンス美術についてなかなか読むのは難しそうですが、その広さ、奥深さの一端に触れさせていただき、浅いながらも認識を新たにした次第です。ありがとうございました。
 なお、本稿では「ルネッサンス」の表現を「ルネサンス」に改めました。
(文:佐藤安彦 写真:*印赤澤義昭さん提供、庄司隆)