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第45回文化サロン 平成20年9月18日

「賢治が出会った盛岡の先人たち
―新渡戸稲造・原敬・小田島孤舟・島地黙雷―」
ゲストスピーカー 牧野 立雄 氏 (伝記作家)
第45回文化サロンのポスター プロフィール
 牧野立雄氏は1948年愛知県生まれ。全国各地を放浪しながら宮沢賢治に目覚め、1977年法政大学日本文学科卒業と同時に盛岡へ移住。学習塾経営、著述出版業などを経て1995年から財団法人盛岡福祉バンク市民活動交流室長。2003年に退職後著述出版活動を再開。
 著書としてはインタビュー集『風のシグナル』(キリン書房)、『隠された恋 若き賢治の修羅と愛』(れんが書房新社)、『宮沢賢治 愛の宇宙』(小学館ライブラリー)、『夢見る啄木 野を行く賢治』(洋々社、山本玲子さんと共著)があります。
ゲストスピーカーの牧野立雄氏
 牧野さんは最初に、2006年12月から2年間の予定で「街もりおか」に「賢治と盛岡」と題して盛岡中学時代(明治42年から大正の初め)の賢治について連載しており、このための資料を探す過程で思いがけない発見があったと話した。それが今日のタイトルの賢治と原敬や島地黙雷など盛岡の先人たちとの出会いである。原敬は教科書で、新渡戸稲造は5千円札で知られているが、小田島孤舟、島地黙雷はあまり馴染みがないと思う。

盛岡中学時代の賢治(前列左)
盛岡中学時代の賢治(前列左)
新渡戸稲造、原敬
 賢治が盛岡中学の一年生のとき(明治42年6月)盛岡に来た新渡戸稲造(当時盛岡第一高等学校長、東大教授)の講話を聴いている。また、その年の9月には原敬の講話を聴いた。
 新渡戸の講話は、「顔つき」は内面が表れるが皆さんはたるんでいると、また一日一回は黙思せよ、などであった。原敬は欧米視察旅行から帰った直後で、外国語の勉強を勧めた。袴姿で自転車に乗って出向き、仁王小学校、盛岡高等農林などでも講話をしている。原は賢治に世界に対して目を開いてくれた人。
 原敬が欧米視察旅行に行く前は大きな権限を持つ内務大臣、総理に次ぐ要職で、全国を回った際に大歓迎を受けた。内務大臣として皇太子(後の大正天皇)が全国行啓のための地ならしという大事な仕事を成した。

上段左から、小田島孤舟、新渡戸稲造、原敬、島地黙雷、下段左から、暁烏敏、島地大等
上段左から、小田島孤舟、新渡戸稲造、原敬、島地黙雷、下段左から、暁烏敏、島地大等
 賢治はこの行幸でご来盛の皇太子をお迎えするための小学校の遠足で明治41年9月30日に初めて盛岡に来ている。
 皇太子(東宮)の行啓に合わせて全国的に近代化の基礎である電灯が灯り、電話が通じている。盛岡では電灯が明治38年、電話が明治41年である。また、赤レンガの銀行の建物(明治43年)や大洪水で決壊した中津川の護岸ができて、現代の重要な部分がつくられた。

 新渡戸稲造に関して重要なのは祖父の伝は偉い人で十和田(三本木)などを開拓した人。新渡戸家は南部藩の武士だったが権力闘争に巻き込まれて下北半島に流された。 伝は武士を捨て行商人となる。商才がありハッタリの効く人。下北半島の材木(ヒバ)を伐り売って千石船を造るくらいの大金持ちになる。幕末に才能を買われて南部藩に戻り勘定方になる。
 花巻でも開拓しており、伝は開拓者で新渡戸家には開拓精神のルーツがある。明治9年に明治天皇が東北行幸のとき、十和田で忘れられていた新渡戸家の功績を称え、金子を贈った。そのお金を家族に分け与え、稲造は聖書を買っている。賢治はキリスト教徒ではないが、時代の先人を受け継いでいる。

「賢治が出会った盛岡の先人たち」を熱く語る講師の牧野さん
「賢治が出会った盛岡の先人たち」を熱く語る講師の牧野さん
 原が賢治に与えた影響で重要なのは、岩手県人は郷土の歴史、文化に誇りをもてと強調したことである。原は南部藩の歴史書「南部史要」を刊行している。戊辰戦争に負けて朝敵になったが、原は戊辰戦争殉難者50年祭に「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名を雪いだ。賊軍で最初に大臣になったのは原である。
 賢治は盛岡で暮らす中で、県人としてのプライドを段々に培っていった。賢治の童話に郷土意識が出ている。開拓者としてプライド、地域性が賢治に芽生えたのでは。
メモをとり熱心に聞く会場の皆さん
メモをとり熱心に聞く会場の皆さん
小田島孤舟
 本名は佐々木理平治で明治17年、現在の花巻市東和町に生まれる。浄法寺の旧家小田島呉服店の長女と結婚して小田島姓となる。孤舟は72年の生涯で実に、短歌3800余首、歌集15編、著書7冊を遺している。明治、大正、昭和の三代にわたって岩手歌壇の育成と確立に努め“岩手歌壇の父”ともいわれている。
 孤舟は浄法寺尋常高等小学校校長を勤め、現在の盛岡二高などに奉職した教育者であり、端麗、清雅な書風をもつ書家でもあった。昭和8年(賢治没年)に門下生たちが孤舟生誕50周年を記念して、高松の池畔丘の上に歌碑を建てた。教職を追われ雑誌の編集長になった孤舟を激励するためだった。

賢治との関係
 明治39年賢治の父親が中心となって花巻で開いた夏季仏教講習会に暁烏敏(あけがらす はや)がゲストとして招かれた。暁烏は浄土真宗の精神的なリーダー、真宗大谷派の宗教家で、仏教改革の花形であった。賢治はこのとき暁烏のお世話係になった。孤舟もこの講習会に参加している。孤舟が自費出版した歌集に暁烏が序文を書いている。
 いろんなことが関係している。賢治は仏教経典「法華経」を信仰したが、島地大等が編集した『漢和対照妙法蓮華経』を読んだのがきっかけ。これを読んだのは、賢治の父の友人で、浄土真宗の熱心な二戸福岡の信者から献呈されたから。盛岡でなく、浄法寺、花巻、福岡でつながり人間関係ができている。
 小田島孤舟は啄木と深い関わりがあることも重要。啄木が盛岡で「小天地」を出版したときに小田島が会いに行っている。東京で発刊された「明星」に小田島も短歌を出している。宗教では暁烏敏の関係、短歌では啄木と関係があり、亡くなるまで付き合いがあった。

出会った人たちと賢治の関連年表
出会った人たちと賢治の関連年表
 賢治が短歌に入っていくきっかけは、推定だが「一握の砂」といわれている。賢治が短歌を作り始める前の年の12月に啄木の歌集が出ている。
 賢治が小田島の歌集「郊外の丘」を買ったことは、賢治の小遣い報告ではっきりしている。父は賢治を商家の後を継ぐ約束で盛岡中学に出した。商家の跡取りの訓練で金の使い道を報告させた、小田島は父親に紹介された人で安心させたのでは。こうして密接な人間関係ができていく。
熱心に聞く会場の皆さん
熱心に聞く会場の皆さん
島地黙雷
 周防国(山口県)の出身。西本願寺の僧侶で西本願寺の改革を建白し、明治3年に西本願寺の参政となった。明治5年岩倉使節団の一員となり、ヨーロッパ方面の視察旅行を行う。エルサレムでキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。インドの仏跡を訪ねた最初の日本人となった。政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生を図った。単なる宗教家でなくその頃の政策決定の助言者で、女子文芸学社(現千代田学園)の創設や早稲田大学仏教青年会の設立に寄与するなどの活動をしていて、日本の仏教史上明治4年から明治19年ごろまでを「黙雷時代」という。明治25年盛岡北山願教寺二十五世となった。(『漢和対照妙法蓮華経』を編集した島地大等が黙雷の養嗣子となり、黙雷亡き後の願教寺の住職を継いだ)
 西本願寺のナンバー2で、近代宗教の歴史の中で一番偉い方が何故盛岡に来たのか不思議である。前の住職が散財して寺を追い出され、その後任として島地黙雷にお願いした。しかし西本願寺は朝敵の南部に行かせる訳にはいかないとのことだったが、東北開発掌管という立派な肩書きをつけて出した。黙雷は60歳を過ぎてからだが教育の面で重要な役割を果たした。

中学生の賢治
中学時代の賢治
 賢治が盛岡で勉強を始めた頃、盛岡の現在の重要な部分となる赤レンガの建物建築や電灯設備、電話開通、中津川の護岸ができた。このころ盛岡の高松から北山はこのような世界的ネットワークをもった日本最高の知識人、文化人が集まっていた文化ゾーンであった。賢治が願教寺に行ったのはお経を唱えるためでなく、東京に行かなくとも最高の人たちに直接会うことができたからである。先人たちとの出会いが賢治のバックボーンになっている。
 賢治は思春期と青年期の11年間、盛岡に住んで良い思い出がたくさんある。盛岡をすばらしくイメージアップしたのは盛岡人でない花巻から来た賢治である。イーハトーブの中心は盛岡である。これからも盛岡を紹介するとき賢治が出てくると思う。

 牧野さんは、長年賢治を研究して分かったのは、今日のテーマのような賢治の背景を知ることが大切だということだ、と話された。また、盛岡・岩手でもっと知られて良い人が多いとも話され、出会いの大切さを強調されました。ありがとうございました。
(文:佐藤安彦、写真:庄司隆)