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文化サロン3周年記念 戊辰戦争140周年特別企画イベント
盛岡藩と明治維新
平成20年6月18日 サンセール盛岡
第42回文化サロンのポスター 舞台看板 盛況な会場
挨拶する佐野逸郎理事長
(挨拶する佐野逸郎理事長)
協賛会社(株)熊谷印刷の熊谷明社長
(協賛会社(株)熊谷印刷の熊谷明社長)
司会の川村龍雄氏
(司会の川村龍雄氏・フリーアナウンサー)
「画像でたどる戊辰戦争」村田 明 氏(村田古写真館)

村田明講師「画像でたどる戊辰戦争」
(村田 明 講師)
 村田明氏は、岩手県浄法寺町生まれで東京写真短大を卒業。専門誌カメラマンを経て盛岡市で38年間村田写真館・ムラタカメラ店・盛岡カラー現像所などを経営。平成15年事業を辞し、古写真の調査研究生活に入る。長年に亘って集めた10万点に上る古写真の保存活用に努めております。また、国内有数の湿版写真の収集家として知られています。

 村田さんには、戊辰戦争140周年の特別企画イベントに賛同して、50数年来の写真発達史研究の一環として蒐集された資料の中から、戊辰戦争に関する石版画や写真など15点ほどを画像に解説を加えて披露していただきました。
 これらは歴史を実証する貴重な資料で、村田さんは今回の目玉ともいうべきものとして、次の2点を挙げました。その一つとして披露された江戸城の無血開城に合意した西郷隆盛と勝海舟の会見の石版画はこれまで無いといわれており、まさに歴史的会見を実証するもので、緊張した会見の様子を伝えていました。
 二つ目は、本州最後の戦いとなった能代の二ツ井から盛岡藩が撤退する場面で、従来伝えられた場所は違っていたと証明する資料とのことでした。
 このほか、「戊辰戦争の緒戦となった鳥羽・伏見の戦い」、「その戦いで勝って大坂城に入場する官軍」、「上野寛永寺での官軍と彰義隊の戦いの場面」、「不来方城の写真」、「東征軍総督に任命される有栖川親王の場面」、「会津戦争で敗れた際の会津若松城や白虎隊の遺品」、「秋田戦争での官軍の肩章や旗」、及び「大館城進攻の際の戦闘場面や陥落する図」などの紹介していただきました。
 中でも「不来方城の写真」は、村田さんが北海道から九州まで20年に亘って探して見つけたという原画で、唯一今に伝える不来方城の姿を目に留めることができました。
西郷と勝の会見
(西郷と勝の会見)
不来方城の写真
(不来方城の写真)
講演「盛岡藩と戊辰戦争」金野 静一 氏

(岩手県文化財愛護協会顧問、岩手県教育弘済会顧問)

金野静一講師「盛岡藩と戊辰戦争」
(金野 静一 講師)
 金野静一氏には、第24回の文化サロンのゲストスピーカーをお願いして「奥州平泉と源義経」と題して講話をしていただきました。プロフィールは こちら(第24回文化サロンへリンク)から ご覧ください。

 慶応4年の7月3日、不来方城において、南部藩の政策決定のための大評定が行われた。仙台藩から「秋田を討て」との矢の催促があって、南部藩はどのような態度をとるべきか。
 同年1月3日の鳥羽・伏見の戦いで始まる戊辰戦争では、幕府が薩摩・長州に主導権を奪われた。当時、江戸では西郷隆盛の命で辻斬り、暴行、放火などの挑発行為を繰り返したが、勝海舟や15代将軍慶喜は「我慢我慢」と言っていた。一方で和平工作もした。しかし、会津、庄内はその挑発行為に乗ってしまう。12月25日に庄内藩士が中心になって薩摩屋敷を襲った。京都の慶喜に聞こえて、会戦となったが、鳥羽・伏見の戦いに負けたのは兵器の差。
 朝廷は全国の各藩に、「政権は徳川が返上したが、まだ、不逞のやからがいるので、京都に出仕せよ」と命じた。南部利剛候は筆頭家老の楢山佐渡を京都に行かせた。西郷、勝はそれぞれの立場で苦しみ、岩倉具視の反対もあったが、国内で争っている場合でない、平和なうちに政権交代したいとの考えから4月に江戸城は無血開城された。

 佐竹藩、津軽藩は奥羽越列藩同盟から離脱。7月3日の不来方城での大評定では、圧倒的に「秋田を討て」が多く、一部には「いじめられているから、仙台を討て」との意見もあったがまとまらず。結局、帰ってくる楢山の意見を聞いて決めようということになった。
 楢山は薩長の政権樹立のやり方に疑念をもつ岩倉に会い、「奥羽列藩同盟の意義大いにあり」との言を聞いて、反薩長に傾く。
 楢山は仙台に来て「秋田を討つ」ことに決定。7月16日、論議の末、南部藩も踏み切り、8月9日、秋田戦争が始まる。総司令官は楢山。利剛、楢山は本来、勤王思想に近かったが、2千の兵を率いて進撃。大館城を占領、最初は勢いがよかったが、官軍が増兵して反撃、後退を余儀なくされた。
 西郷が春日丸で新潟から庄内藩に入る。8月29日に米沢藩、9月15日に仙台藩が降伏。庄内の戦後処理を決めたのは西郷で、寛大だった。革命家だった。哀れむべきは会津、盛岡だったが、9月22日に会津が、9月24日に盛岡が相次で降伏、戦闘は終わる。

盛況な会場の様子
盛況な会場の様子
 謝罪文書は、藩主利剛が病気で14歳の彦太郎が名代として手交した。敗軍の将は、陣幕に入るとき、はだしになる。周りから罵声、嘲笑を浴びせられる。楢山、佐々木直作、那珂五郎が戦争犯罪人に。10月10日、秋田官軍が盛岡に進駐、不来方城が占領される。南部藩主親子は東京に召還、領地は国替え、白石に転封となった。
 明治2年6月2日、楢山が盛岡の報恩寺に帰ってきた。6月23日午前4時、楢山はその広間で切腹、江釣子源吉が介錯。「花は咲く 柳は燃ゆる 春の世に 移らぬものは 武士の道」が辞世の句。刎首された血がふすまに飛んだ。報恩寺は昭和6年、32年に火災にあっているが、そのふすまをわざわざそのまま置いた。南部藩で心あるものは、子どもを連れてきて、そのふすまを見せて、戒めにした。「かくて南部藩は滅んだ。しかし、天は一人の復讐者、一人の雪辱者を残した」と書いた人がいる。これは大正6年9月8日の戊辰戦役受難者50年祭に於ける原敬の祭文によく現れていると思う。
講演「近代岩手の展開へ」−明治盛岡藩十三万石から新生岩手県政側面史考―

吉田 義昭 氏(郷土文化研究所「盛岡」所長、奥羽史談会会長)

吉田義昭講師「近代岩手の展開へ」
(吉田 義昭 講師)
 吉田義昭氏は、昭和6年盛岡市生まれ。盛岡市教育委員会文化主幹・文化財専門委員を最後に市教育委員会を退職後、郷土文化研究所「盛岡」の所長として活躍されております。その傍ら、奥羽史談会会長のほか、盛岡市文化財保護委員、盛岡都市景観形成推進委員会副会長、盛岡市都南歴史民俗資料館運営委員会会長など多方面に亘って活動しています。
 著述面でも、図説「盛岡四百年」、「史跡 盛岡城」、「盛岡市郷土史年表」など数多く著しており、浅田次郎原作松竹映画「壬生義士伝」の時代考証も担当しました。

 吉田さんは最初に、戊辰戦争が終わった後の岩手県の成立過程を詳細な資料で解説しました。版籍奉還と廃藩置県が行われ、盛岡藩は最初盛岡縣となるが岩手縣の名前が誕生したのは明治5年1月8日付けである。明治7年に県政を把握するためつくられ「岩手縣一覧概表」によると当時は岩手郡、紫波郡、九戸郡など六つの郡であった。氣仙郡、江刺郡、膽澤郡などは、宮城県の登米郡、栗原郡、玉造郡など8郡は水澤縣(県庁所在地は宮城県の登米)となっていた。現在の岩手県土が確立したのは、膽江・両磐統合や二戸・気仙の併合を経た明治9年5月以降であった。
明治維新の岩手県勢
(明治維新の岩手県勢)
 明治の新しい時代になって盛岡藩にも大きな変化があったが、明治元年の10年前安政元年の盛岡藩と水戸藩との関わりが岩手の近代化の背景となっている。  当時発言力があった水戸藩主、水戸斉昭は幕府に国防強化を進言、この軍需産業開発のため幕府から1万両を拝借し、大砲を製造してその大砲を江戸湾に設置することで返済の代わりとした。この大砲は、盛岡藩の大島惣左衛門(高任)が作成して水戸藩に提示した模型によって築造した洋式溶鉱炉(反射炉)で製造したもので、この築造にも大島が当たった。鉄材は水戸藩には良質のものが産出されず釜石の鉄を調達して同港から運んだ。これが釜石の鉄の産業が固まっていくきっかけとなっている。
 安政4年に水戸斉昭の息女松姫が南部藩主利剛の正室として嫁いだ。この嫁入りに幕府から借財するほどの膨大な費用を掛けており水戸藩が盛岡藩への期待が伺われる。また、松姫の妹が仙台藩に正室として嫁いでおり、葵の紋を中心に三藩は結ばれていたことに注目すべきである。
 盛岡藩は慶応4年に、有り余る鉄を活用して盛岡領内で通用させる銭貨を藩営で鋳造(鉄製)したが、結果として通用せず商人が疲弊した大きな要因にもなった。また、戊辰戦争の賠償金70万両が払えず、報恩寺など五つ名刹を処分してこれに充てた。
盛岡藩の貨幣
(盛岡藩の貨幣)
レジメを参考に
(レジメを参考に)

島県令による近代化の推進
 県制になって明治4年に初代の県令(知事)に就任した島 惟精は、明治17年まで在任して岩手の近代化に大きな貢献をした。島県令は大分県人で大蔵官僚と行き来して情報に長け批判する力を持ち、江戸時代の旧弊にメスをいれ近代化を進めた。
 当時の状況は、岩手県文書「岩手懸形勢」の冒頭で「本県下士農工商ノ現状ハ概シテ衰頽ヲ極メタリ若シ今日ノ勢イヲ放任シ置カバ両三年ヲ出スシテ立行ク能ハザルノ困難ニ陥ラン」と記し、士農工商それぞれで問題山積であった。また、「勧業上ノ妨害」の文書では運輸不便で日用品の運賃が倍である現状を述べ、道路を開鑿すれば効果がある、と記している。

 このような環境からなかなか勧業が進まなかった。県は少ない資源を活用して陶磁器の世界にいたるまで、多くの時間と人材をかけて試験場を作り民間への貸与も行った。さらに信用機関(金融)の設置も含めて勧業振興を図った。
 これらを推進したのが島県令であり、二代目県令の石井省一郎は道路改良を進めて県勢の発展に尽くした。
演題「原敬の挑戦」 木村 幸治氏(前盛岡先人記念館館長)

木村幸治講師「原敬の挑戦」
(木村 幸治 講師)
 木村幸治氏には、第13回文化サロンのゲストスピーカーをお願いして「原敬の美学〜いのち、義、愛、紳士道〜」と題して講話をしていただきました。プロフィールは こちら(第13回文化サロンへリンク)から ご覧ください。

 先日の新聞に「住みよい都市ランキング」があり、盛岡市が全国36位、東北・北海道で1位となった。戊辰戦争を乗り越えた先人、市民の努力があったからではないか。逆境をばねに大成した人に盛岡の原敬、会津の山川健次郎がいる。
 山川は年齢の壁があって、白虎隊に入れず、幼年隊で地上戦を戦った。東京帝国大学の物理学科を創設。日本の物理学は賊軍の会津と南部が始めた。山川は明治34年、東京帝大の総長、44年に九州帝大の総長を兼任したが、原内務大臣のときである。大正3年、山川は皇太子殿下の教育係に任命される。これも原によるものだが、そのとき60歳。山川は奥さんに「今日ほどうれしいことはない。これで会津は朝敵でないことが分かった」と言ったという。

 戊辰戦争がなかったら、原、斎藤実、米内光政の総理大臣はなかった。原は19代内閣総理大臣。大正10年3月3日、皇太子殿下が6カ月の外遊から帰国した時の様子を写したビデオを映写。戦艦「香取」のデッキでのお祝い会で、民間人でただ一人参列した原は、無事ご帰国のお祝いを述べ、万歳の音頭をとった。皇太子から「原総理ありがとう」の意味の表情に原はボロボロと泣いて感激したという。続いてお召し列車で高輪の御所に帰られるまでの歓迎の様子が写されている。
 原は皇太子を早く立派にするため、外遊を勧めた。だが、外国の文化を勉強する必要はない、前例はないと大反対の声が上がった。しかし、パリで外交官をしていた原は、頑固に押し通した。帰国した皇太子は「私の感想を国民に知らせてほしい」と原に頼み、新聞に掲載される。昭和天皇となられたときも、「一番うれしかったのは、皇太子のとき、かごの鳥から解放されて、自由になってうれしかった」と語られた。暗殺後、勲章はいらないといっていた原に、大勲位菊花大綬章が贈られた。天皇自身が決裁したもの。
外遊から帰国した皇太子
(外遊から帰国した皇太子)
お出迎えの原敬
(お出迎えの原敬)

  原の生い立ち
 安政3年生まれ、幼名は健次郎、元服して敬と改名した。戊辰戦争で盛岡藩が敗れ、楢山佐渡が帰ってきたが、お城には入れず、明治2年6月23日、報恩寺で刎首の刑となった。午前3時30分のことだが、もぐりこんでいた13歳の原は、空気がヒューンとなったのを感じたという。「かくて南部藩は滅び、天は一人の雪辱者をこの世に送り出した」と書いた人がいる。
 3年には藩校作人館に入り、翌年廃校となり上京した。15歳から26歳は転職、挫折の日々だった。共慣義塾を退学、教会学僕、宣教師エブラルの学僕、司法省法学校放校、郵便報知新聞社退社、大東日報退社と続く。27歳から井上馨の世話で外務省御用掛、天津領事、パリ公使館。だが、帰任しても、大隈重信外務大臣がよく思っていなかったので、いすがなかった。陸奥宗光秘書官、外務省通商局長、外務次官、朝鮮全権となったが、帰任してもいすがなかった。
 そこで、40歳から民間に転出する。大阪毎日新聞社長、政友会創設に努力。政友会幹事長、逓信大臣、大阪北浜銀行頭取、明治35年から衆議院議員、大阪新報社長。50歳から65歳まで、内務大臣3回、政友会総裁、62歳に内閣総理大臣(第19代)。

 原には固く決意していた陸奥宗光の言葉がある。「薩長政治の中に入って、彼らを利用して、国の変革をした方がいい」。大正6年9月8日、「戊辰戦役受難者50年祭」が実施された。原は政友会総裁だったので、北田盛岡市長が実行委員長になって実施。原は「焚く香の 煙の乱れや秋の風」との句の入った祭文を寄せ、「旧藩の一人、原敬」としたためた。50年祭は藩士がするのでなく、県民が実施すべきだからというのが、その理由だった。
 大正7年、内閣総理大臣になる。元老の推薦が必要なのに、山県有朋は政党政治が嫌で、そのため説得や作戦を展開、西園寺公望が推して実現した。これによって、東北の何が変わったか。岩手県人は誇りを取り戻した。戊辰戦争は過去の戦争だったと割り切れた。
 原は親分に恵まれた。井上馨、陸奥宗光など。人間の機微を分かっていて、人情に厚い。民主政治を歓迎、外交方針もアメリカを大事にし、中国、朝鮮とも対等に接し、大学教育を改革、裁判の陪審制度を導入した。また、原敬日記を残した。明治8年から大正10年10月25日まで、82冊。明治、大正の動きを自分の目を通してみてほしいとのメッセージが込められている。

受付の様子  文化サロンは、お陰さまで平成17年1月に開始してから3周年を迎えることができました。今回の記念イベントに多数の方々のご参加をいただき、講師の皆様、後援各社のご支援、ご協力によって盛会裏に終了することができましたことを、厚くお礼申し上げます。
 講師の皆様には限られた時間で特別企画に相応しい講演をしていただき感謝いたします。
(文:佐藤安彦  写真:庄司隆、庄司夏郎)