現在の位置:ホーム >文化サロン >第41回文化サロン

第41回文化サロン 平成20年5月15日
「命見つめ心起こし、生命村長・深沢晟雄に学ぶ」
ゲストスピーカー 及川 和男 氏 (作家)
第41回文化サロンのポスター プロフィール
 及川和男氏は1933年東京生まれ。一関一高卒。一関在住の作家です。日本文芸家協会、日本児童文学者協会、日本ペンクラブ、島崎藤村学会各会員。
 主な著書としては、『村長ありき・沢内村深沢晟雄の生涯』『鐘を鳴らして旅立て』(新潮社)、『生命村長深沢晟雄物語』(童心社)、『藤村永遠の恋人佐藤輔子』(本の森)などがあります。
ゲストスピーカーの及川和男氏
 今回の文化サロンは、一関市在住の作家、及川和男さんをお招きして、全国に先駆けて老人医療費無料化の実現や乳児死亡ゼロの偉業を達成した沢内村村長、深沢晟雄の生涯について、大要次のように語っていただきました。

生い立ち
レコーダーを使って、生前の深沢晟雄の声を再生する及川氏  沢内村は藩政時代、盛岡藩の罪人の島流しの地で、「沢内風土記」にもまるで「天牢雪獄」と書かれてある。深沢さんは、この村で小さな地主の家に生まれた一人っ子、盛岡中学を希望したが、下宿代がなく高等科へ進む。米価が上がり祖母の援助などで進学が許されるが、盛岡中学の願書締め切りは過ぎていて、一関中学に入学。当時は盛岡中学に追いつき、追い越せの気概があって、ナンバー2の中学時代を過ごし、権威にはむかう、反骨意識がはぐくまれた。
 一関中学から、医師の道に進むことを条件に二高理科に入学。その後無断で東北帝国大学法文学部に入り、卒業して上海銀行に就職。
 上海があぶなくなって、台湾総督府の職員になる。奥さんが子宮外妊娠となり死亡、一人娘を沢内の親元に託す。菊池ミキさんと再婚。理想に燃えた2人は、娘を実家に託して満州拓殖公社に就職。しかし、「五族協和」のお題目の国策会社の中身に反発して職を変えて山東半島の炭鉱にいたとき、終戦となった。中国人民に炭鉱を無事引き渡すため、妻と残留したが、人民裁判にかけられる。「他の経営者と違って、やさしくしてくれ、何も悪いことはしていない」との中国人青年の証言で無罪になる。八路軍の護衛で青島まで送られ、佐世保に帰国した。

生前の深沢晟雄の話に聞き入る皆さん 沢内村で生きる覚悟
 21年に帰郷し農業に従事、村の青年会の学習塾で講師をつとめ、平和と民主主義の尊さを説く。23年佐世保船舶工業に就職、朝鮮戦争休戦後の平和不況で首を切らなければならない総務部長となるが、「一生懸命働いてきた労働者の首は切れない」自分の生活を顧みることなく退職。昭和29年村に帰った直後に父が死亡。母一人となって、「この村でいきていくか」と覚悟を決める。黒沢尻高校の定時制の臨時英語講師となるが、「今の沢内はこれでいいと思うか。君たち若者が力を発揮して、もっと人間らしく生きられる地域をつくっていかなければいけないのじゃないか」と諄々と説く。
熱心に聞く皆さん 沢内村教育長に就任―行脚と対話で心起こし
 そうしたことが評判となって、教育長に請われて就任。そして、行脚を始めた。「奥さんいませんか」と。戦後9年もたって、婦人会がなかった。農家の主婦や嫁さんに、子育てなどのことを話し合い、民謡や踊りを楽しみながら活動するため、婦人会をつくってはと。沢内の婦人たちの心に火をつけ、心を起こしていった。
 さらに青年会の立ち上げ。農協に行っては「青年部を」、役場に行っては「労働組合をつくりなさい」「村人に奉仕する労働組合運動をやってはどうか」と勧めるが、なかなか賛同は得られず、深沢さんが助役になって、労働組合が誕生する。こうして、行脚と対話で動き始めたのだが、何のためだったのか。
 私はこう考えている。封建的農村にあって、女性は、村全体と家庭での男たちからの差別という、二重の苦しい立場に置かれている。女性は無自覚ふうに男に従って見えるが、深沢さんは今の現象で人を見ないで、人間としてどんな感性を秘めているのかに着眼して、目覚める方向へ導いていった。新しい村づくりの原動力となる人たちを、婦人の力で組織し始めた。
熱心に聞く皆さん  そして村婦連ができ、青年会の組織化も進む。たぎるような青春の力を持っている青年たちの未来にかけた。女性たちの可能性にかけた。
 行脚と対話を駆使しながら、村人の心を起こしていく。これが後に、村人たちの結束を促し、乳児死亡率ゼロの実現となった。それを支えたのは母親、女性たちだったといっても過言でない。

 教育長になって、広報の創刊を手がけた。広報活動のない民主主義はないと自分が編集長になり、「広報の前に公聴あり」というスローガンを出し、村民本位、民主的広報を発行。数年後、全国のコンクールで上位入賞する。
 教育長時代に、農協専務の佐々木吉男さんの要請でナメコ組合の組合長となる。おいしい沢内ナメコが山形産の缶詰になっていたのを、沢内ナメコとして売り出し、村の当初予算に匹敵するぐらいの収入を農家が得て、「ナメコ教育長」とも呼ばれた。
 役場の国保係に高橋清吉さんという人がいた。健康な村人にさせたいとの思いでいっぱいの人で、保健婦を増やして健診をしたい、乳児の死亡率が高い、来る医者に問題がある、乳児検診をしたい、など深沢教育長に思いをぶつけた。深沢さんはこの願いを受け止め、これが生きてくる。深沢さんは、「60歳以上の医療費無料化は高橋さんの発想です」と直筆の感謝状を贈っている。自分の手柄にしていない。
メモを取る参加者 助役から村長に 三悪追放を目指して村民と立ち上がる
 深沢さんは、請われて助役となり、その7ヵ月後の32年、村長に当選し就任する。女性や青年たちから要請されて、即断して、無競争当選だった。
 農協専務の佐々木吉男さんに、あなたの力を借りたいと懇願して助役にと推す。その後、20年間、助役を務めることになる。2人は、ナメコ時代と同様に、自転車で「行脚と対話」を始める。細かく各地に入って、対話集会を開く。
 いろいろ話していくうちに、浮かびあがってきたのがやっぱり「豪雪・多病多死・貧困」の三悪問題である。しかし、深沢村長は政策を出してついて来いというのでなく、集約された問題をみんなで力を合わせて解決する、「草の根からの自治の力をつくり出す」ことに眼目を置いた。

 まず、冬季交通確保期成同盟会を結成、53万円の資金のうち、村は16万円、県が10万円を負担した。翌年には沢内村役場から湯本温泉まで、ブルドーザーによる除雪を開始、38年には盛岡・湯田間の定期バスが開通し、豪雪を突破した。
 村長就任時、沢内病院は医師の確保が頭痛の種となっていた。岩手医大の人事によって、暗礁に乗り上げていたのだが、深沢村長は直接、岩手医大に乗り込み、「医大は何をやっているのか」と縁切り宣言をし、東北大医学部へ足を向ける。そして、35年3月、院長に加藤邦夫医師、副院長に増田進医師を迎える。
資料を見ながら聞く参加者  昭和35年、深沢村長主導で、地域包括医療計画案をつくり、2年間、村民が討議した。その中身は、「1、すこやかに生まれる。2、すこやかに育つ。3、すこやかに老いる」を目標とした。
 35年12月、65歳以上の高齢者に国保の十割給付始める。県からは国保法違反だといわれたが、「本来は国がやるべきことをやっていない。国は必ず後からついてくる」との姿勢に県も理解を示し、保健活動の一環として実施するという説明に議会も同意。これは全国の老人医療無料化の草分けとなる画期的な施策だった。36年4月からは国保の十割給付を60歳からとし、同時に1歳未満児へも拡大した。
 乳児死亡半減運動が進み、32年に出生千人に対し69.6だったのが、34年には27.2、そして、37年にはゼロとなった。それは「経済統制は嫌いだが、教育と医療は国が保障すべき、責任を負うべきだ」「人間の命の格差は許せない」とする深沢村長のもと、村ぐるみの保健活動を積み上げた結果、成し遂げられた。豪雪の僻村が築きあげたこの偉業はわが国自治体初の快挙で、沢内村の生命行政は一躍全国の注目を浴びることになった。
 しかし、生命行政が進む中で、思い切った予算化に「かまど返し村長」との批判や乱受診も起きた。村の予算の自己財源900万円のうち、270万円が保健衛生費だった。このこともあって、反深沢派は36年の村長選に対立候補を擁立、激戦となって、1786票対1481票で辛勝した。
 深沢村政2期目も、生命と健康を守る村民総ぐるみの運動は進められた。高齢化は進んだが、予防医学に徹して早期発見・早期治療に努めた結果、老人医療費は大幅に低下した。70歳以上の老人医療費無料化は深沢村長の予言通り、国の政策となったが、患者が増え、医療費が増える一方となったため、一部有料となった。だが、沢内村では世論の力によって、老人医療費無料化は維持された。この運動をきっかけに、どうせただだからとの乱受診は影をひそめ、「自分たちの健康を、自分たちで守る」という意識が根付いていった。深沢村長の残した力、志がその運動を支えたのだと思う。

力を込めて語る及川氏  沢内村の新しい村づくり活動、長瀬野地区の「新生活運動」で4つの方針が掲げられた。1.調査眼を持つ。2.指導者は引率型でなく、演出型の役割を演じ、組織の能力をフルに引き出す。3.運動は終着駅型でなく、各駅型にして、常に新しい目標を置く。4.三せい運動(一人ひとりがせい、話し合ってせい、みんなでせい)。この中の「三せい運動」はその後の村内のあらゆる活動の指針となった。自主的に、話し合って、共同してみんなでしよう。こうした自分たちの村を、自分たちの力で変えていこうとする力こそ、「人間を大事にするのが民主主義」と考えていた深沢さんが願ってやまなかったものだ。
 深沢晟雄村長は、理想高く正義感の強い人で、健康こそが人間の基本として数々の生命行政を推進した深沢さんに学ぶことは多いと思う。
 村人がつけたあだ名のナメコ教育長、ブルドーザー村長、説教村長、赤ちゃん村長、かまど返し村長、生命村長が深沢晟雄を物語っている。

 “46年前、沢内村が発した「すこやかに老い死ぬまで生き生きとしている高齢者をつくろう」というメッセージは、命が軽んじられている現在をますます輝いて照らしている”と話された及川さんの言葉を、この稿のまとめとします。
 報告が大変遅延したことをお詫びします。(文・さとう、写真・しょうじ)