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第40回文化サロン 平成20年4月17日
「岩手が生んだ偉大な教育者・事業家 柴内 魁三」
ゲストスピーカー 福士 醇 氏(元岩手県立盲学校教諭)
第40回文化サロンのポスター プロフィール
 福士醇氏は、昭和18年7月青森市に生まれ。青森高校を経て岩手大学学芸学部を卒業後、岩手県で教諭となりました。江刺高校を振り出しに、盲学校、養護学校などで教え、平成16年3月に退職。38年間の教諭生活のうち、19年間を盲学校に奉職されました。
 著書としては「盲弱視関係文献目録」「新編岩手盲学校物語」などがあり、昨年「岩手の特殊教育の父 新 柴内魁三伝」「青少年のための柴内魁三伝」を刊行しました。
ゲストスピーカー 福士醇氏
青少年のための 柴内魁三伝  新年度を迎えた最初の文化サロンは、ゲストスピーカーに福士醇さんをお迎えし、岩手が生んだ特殊教育の父 柴内魁三の生涯を紹介していただきました。
 福士さんは最初に、柴内先生の伝記は昭和54年に山田勲氏(故人)によって発行されているが、今は残部がないので多くの人に知って欲しいと思い伝記を発行した、と話された。
 昨年出版した本は、山田氏のご子息と柴内のご令孫のお勧めによって、山田氏の伝記をほぼ網羅しながら盲学校の資料や集めた新聞記事などを駆使して執筆した。また、盲学校の保護者から魁三伝は難しいので青少年にも読みやすく、夢を与えるような魁三伝を、との要望を受けて「青少年のための柴内魁三伝」(横書きで左開き)を執筆し、これを合わせて一冊にして発行したそうです。(写真参考)
柴内魁三
「柴内魁三」
柴内魁三の生い立ち
 柴内魁三は明治12(1878)年9月10日に、今の盛岡市大沢川原で生まれた。父親は岩手県の巡査で姉2人妹2人、弟1人の6人兄弟の長男であった。魁三少年8歳の時、母親は姉妹が腸チフスに罹り看病疲れで亡くなった。大変な治療費がかかり家屋敷を売り払ったので、父親が梁川村の駐在巡査をしていた関係で、在学中の下ノ橋にある高等小学校まで毎日4里(約16キロ)の道をワラジ履きで通ったという。
 明治27年岩手県尋常中学校(現盛岡一高)に入学。明治27、28年の日清戦争で日本は勝利を収めているが、柴内は軍人になってお国のために尽くそうと明治32年陸軍士官学校に入学した。 陸士(第13期)卒業後秋田の第8師団に配属、翌年陸軍将校(少尉)として台湾で軍人生活を送るが、そこで後藤新平や新渡戸稲造の知遇を得ることが出来た。
日露戦争に出征
 明治37年2月日露戦争が勃発したが、柴内は、旅順近郊の「203高地」や、黒溝台での激戦に参戦、明治38年3月に奉天近くの楊士屯で日本軍得意の夜襲線で大いに奮戦した。しかし、3月7日早朝に左目、同日夕方には右目を銃弾の貫通銃創を受けてしまった。柴内は覚悟を決めて「日本武士はこうして死ぬのだ」と刀を抜こうしたが、部下の引き止めで後退して翌日軍の病院に収容された。後日東京の病院に入院したが両眼瞼貫通銃創による両眼失明で再び世の光を見ることが出来ないことになった。
運命の定めた二人との出会
 柴内は両目失明で大変なショックを受けたが、「失明して国家のために何が出来るだろうか。出来ることは何でもする」と考えていた。見舞い客の中に柴内の運命を決定づける二人がいた。一人はミス・ウエストという女性の宣教師で「柴内さんこれは神様があなたに与えた試練なのです。その試練を乗り越えることができますか」と言った。
 もう一人は東京盲唖学校長の小西信八である。小西は自分の名刺に打っている点字を柴内に触らせ「点字を覚えれば字が読める。自分は学校で盲人に職業技術を身につける教育をして自立させて社会に送り出している」と話した。
 柴内は二人の話を聞いて岩手に盲唖学校を作ろうと決意を固め退院して帰省した。盲目の柴内は中村カヨと結婚、明治42年4月妻子を伴って上京、東京盲唖学校に入学して1年間点字や按摩技術を必死に勉強し、また、盲人を取り巻く状況や盲学校経営に関する知識の吸収に努めた。
資料を示してお話をする、ゲストスピーカーの福士氏 盲唖学校の開校と校舎建設
 明治43年4月盛岡に帰った柴内は、県内のいろんな人に盲唖学校の必要性を説いてまわり、県知事や盛岡市長を始め賛同者が次第に増えた。盲学校を経営する組織として「楽善会」を設立して広く寄付を集め、施設の充実に努めた。原敬や米内光政など県出身者の多額の寄付もあった。
 明治44年8月柴内が校長となり私立岩手盲唖学校を開校し9月から授業を開始、開校時の生徒は男子16人、女子2人で7歳の女子のほかは全部成人で、中には妻子や孫のいる人もいた。翌年4月から聾唖の授業を開始した。
 開校時は2階建の長屋を借りたが、自前の校舎の必要性を各方面に働きかけ、大正3年に盛岡市中央通りに千坪の土地を取得して新校舎を建設した。
岩手県立盲唖学校に移管
 私立学校の経営収支は厳しく、寄付に頼ることの限界に気づいた柴内は収入を増やそうと全国駐屯地軍人への下着の販売などいろんな事業に取り組んでいる。
 しかし、これらの事業でも経営は安定できず、県立への移管を運動し続けた。さらに文部省などへに陳情した結果、公立にする学校令が出された。これにより大正14年に私立岩手盲唖学校は県立となり、柴内は教諭兼校長に任じられた。
 県立移管に伴い私立学校財産は県が買い上げ、その資金と楽善会の財産と合わせて教育後援会をつくり生徒たちの学費の補助に充てた。
 一方、盲唖教育は義務教育の対象外であったので、柴内は義務教育の必要性を訴え続けたが、実現まで相当の時間がかかり戦後の新憲法下で昭和23年にようやく実現した。知的障害児などを対象にした養護学校が義務化するのはこれに遅れること30年後の昭和54年になってからである。
文化サロン会場の様子 社会公共事業
(1)盛岡市の水道事業
 昭和3年に天皇陛下を盛岡にお迎えして大規模な軍事演習が計画された際、天皇陛下の宿所と大本営の場所として建設された県公会堂と軍馬繋場(仁王小学校)で大量の飲用水が必要になった。この頃の盛岡市には水道がなく、水の確保が大きな問題となった。
 柴内は、県が持っていたボーリング用の掘削機を利用して中央通や北山の空き地を掘ってみたら良質の地下水が大量に湧き出し、この水の問題は解決した。
 軍事大演習の終了後、柴内はこの水を利用して水道設備を作ることにして、盛岡市民の希望に応じて出資金による組合方式を設立し組合長に就任して水道事業を始めた。のちにこの組合が盛岡市に発展的に買収された。まさに柴内は盛岡市水道事業の創始者といえる。
(2)盛岡消費組合
 消費者が商品を購入するまでに経由する多くの中間問屋を省略して、庶民にもっと簡単に安くて良い商品を提供しようと考えた社会大衆運動が起こり、岩手県でその運動の中心であった横田忠夫が、このための盛岡消費組合の組合長に柴内を推薦した。
 この消費組合が菜園に店を構えて品物を安く提供し、市民から大いに歓迎され10年ほど続けることが出来たが、国家統制の方向に進んだ結果、昭和17年にその姿を消すことになった。
(3)盛岡病院
 明治23年に盛岡市の上の橋際に出来た病院を明治43年から経営していた柴内の友人竹内慶次郎が昭和7年に病気で倒れた。更に不況の影響もあり竹内は柴内にこの病院の経営を依頼し、公共的な形で運営してほしいと頼んだ。
 そこで柴内は、県内から出資金を募り組合方式で盛岡病院を経営した。さらにこの方式を県内のほかの地方にも勧めた結果、いくつかこの方式による病院が出来た。昭和25年に岩手県はこの組合方式による病院を買収し、県内各地区の岩手県立病院とした。岩手県立中央病院は県内病院の指導的役割を果たしている。
文化サロン会場の様子 (4)傷痍軍人精神指導講師
 日清戦争、日露戦争で負傷した軍人の中にその戦争による精神的ショックからなかなか立ち直れない多くの人がいた。昭和13年に厚生省と陸軍省から柴内に対して全国の軍事保護院を廻って収容兵を激励してほしいという依頼があった。柴内はこの仕事に対して誇りを持って引き受け、北は北海道の北見から南は九州の指宿に至るまで全国を廻って収容者の激励に努め更生を図った。この柴内の話を聞いた人は全国で数万人に上るといわれている。
ヘレン・ケラー女史来校時の様子
「ヘレン・ケラー女史来校」
ヘレン・ケラーの来盛
 昭和12年、目が見えない、耳が聞こえない、話が出来ないという三重苦のアメリカ人女性ヘレン・ケラーが来日して大きな話題となった。彼女は平和の使徒として日本全国を廻り6月29日に岩手盲唖学校を訪れ、「目が見えなくても耳が聞こえなくても、心の目が開いており心の耳が聞こえておれば不幸なことはありません。皆さん手をつないで幸せになってください」と挨拶した。
 昨年末に岩手県内で上映された映画「ふみ子の海」の原作の中にヘレン・ケラーが日本を訪問したいきさつとその意義が簡潔に要領よく書かれており、内容も映画にない素晴らしいものがあるので是非読んで欲しい。
戦中・戦後
 昭和12年7月日華事変が勃発し、日本は太平洋戦争にまっしぐらに突入していくが、柴内は戦争になれば必ず食料が不足すると考えて、昭和11年に学校近くの赤山に1.5ヘクタールの土地を購入し畑を作り、豚を飼い、また校庭の隅々まで野菜を植え て生徒たちの食料に当てた。それでも年々食料が不足し昭和21年にはどうにもならなくなり学校の夏休みを3ヶ月間も延長した。
 昭和23年に盲学校と聾学校の二校に分離し、柴内は盲学校の校長になるが就任直後マッカーサー司令部によって柴内は元軍人ということで公職追放になった。教え子や同僚たちが追放解除の嘆願書を当局に提出し、一年足らずで追放解除となった。
 追放解除後、県教育長から盲学校へ戻ってほしいと依頼されたが、柴内は「私はもう年です。後進に道を譲りたい」といって盲学校長を退いた。教育長は柴内に盲学校の「名誉校長」という称号を与えたが、全国的にも「名誉校長」の名称をもらった人は柴内だけであると思われる。
 その後、柴内はいろんな法整備や障害者の地位向上のための職業訓練や組織作りに力を注いだ。昭和36年柴内は盲学校に不要となった赤山の土地を盛岡市に売却の上、その代金800万円で「柴内愛育会」を設立し、盲学校、聾学校の設備拡充や盲生徒の角膜移植資金の援助を行った。
 昭和41年1月に教え子たちが集まって柴内の米寿のお祝いを開催したが、その年の3月9日に柴内は86歳の生涯を閉じた。
第1号校舎跡地の顕彰碑
「第1号校舎跡地の顕彰碑」
偉業をたたえて
 柴内の偉業が評価され各方面から表彰を受けたが、特に昭和30年に盛岡市勢振興功労者第1号として表彰された。柴内の数々の偉業を顕彰するべく盲唖学校第1号校舎跡地(中央通の岩手県民生活センター敷地内)に平成元年に「岩手県盲唖学校発祥の地」という顕彰碑が建立された。
 盲学校の正面玄関に柴内の盲生徒に対する励ましの言葉である「自分のことは自分でやれ 天を仰いで歩け」という文言を刻んだ大変立派な刻字額が掲げられている。
 福士さんは最後に、岩手の人々は柴内魁三の業績に誇りを持って末永く語り続けていただきたい、と話された。


岩手の特殊教育の父 新柴内魁三伝  不屈の信念で生き、岩手のみならず全国の発展に貢献した「柴内魁三」の業績を知っていただく一助になれば思い、長文になりましたが福士さんがお話された内容を出来るだけ詳しく記載しました。
 文化サロンに多くの皆さんにご参加をいただきありがとうございました。
 なお、「新柴内魁三伝」についての購入などのお問い合わせは、福士醇さん(TEL・FAX 019−635−0339)が受けておりますので併せて紹介します。(文・写真 さとう)
(※ 「新柴内魁三伝」は平成22年10月をもって完売されたとのことですのでお知らせします。平成23年2月)