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第39回文化サロン 平成20年3月13日

「村上昭夫の世界―その詩と生涯をたどる」
ゲストスピーカー 村上成夫 氏(ステンドグラス工房主宰)
第39回文化サロンのポスター プロフィール
 村上成夫氏は、1941(昭和16)年大船渡生まれ。盛岡一高を経て東京電気大学卒業後昭和40年岩手放送に入社しました。
ディレクターとしてドキュメンタリー、ドラマなどの番組制作に従事した後、昭和57年同社を退社。
同年ステンドグラス工房を設立し、現在に至っています。
その間、詩人村上昭夫の弟として詩集『動物哀歌』の復刻などに尽力しました。
ゲストスピーカー 村上成夫氏
会場の様子  今回の文化サロンは、村上成夫さんに、兄・村上昭夫の生涯を述懐しながら、音楽プロデューサー・溝渕和雄さんのギター演奏に乗せて詩を朗読していただき、詩人村上昭夫の世界に触れました。
 ギター演奏の溝渕さんは、花巻市東和町で「カフェほうほう」を営み、「ほうほう音楽工房」を開いて音楽活動されている宮沢賢治ファンの方です。
 最初に、溝渕さんが、村上さんがリクエストしたアメリカ映画「島の女」に出てくる「イルカに乗った少年」を歌い和やかな雰囲気となり、成夫さんの気持ちを込めた朗読で村上昭夫の世界に入り込んでいきました。
 また、中休みでは溝渕さん自作の「ほうほうの子守唄」をお二人で歌い、音楽の楽しさも伝えていただきました。

 成夫さんは、村上昭夫の詩を朗読するといつも兄の真摯な生き様に感動して涙が出るが、岩手日報の詩壇の選者であった村野四郎さん(故人)も講演した際に同じように感じて絶句したという文章を読んで、血のつながりのない他人にも同じように感動を与えていると話された。
 村上昭夫は昭和2年大東町で生まれ5人兄弟の長男と言われ続けたが、病気でその役割を果たすことが出来ず悲しんだ。その悲しみを「一番星」〈一番星はどんな星〉で詠っている。

   一番星は空の悲哀の子だ
   あとからどんなに沢山の星が出できても
   一番星は慰められない空に孤独の子   (以下略)

会場の様子  子どものときから夢を見ているようなよう詩がある。子どものさびしさ、少年時代の感覚が伝わってくる。

  「金色の鹿」
   金色の鹿を見た
   金色の鹿を見たといっても
   誰も本当にはしてくれない

   ぼくが頼りにならない少年だから
   僕のなかの目立たない存在なのだから
   誰もそっぽを向いては
   足早に行ってしまう   (以下略)

 「巨象ザンバ」は、強くて寂しくて孤独なザンバへのあこがれが子どもの心象の中にあったのだろう。(その一節のフレーズに「ひとりの仲間もなく さまよい歩いている象なのだと」と)
 昭和20年3月18歳で岩手中学校(旧制)を卒業して満州に官吏として行くが、すぐに召集され、終戦でシベリア送りとなる。朝鮮の人達に助けられ日本に帰ってきた。「兄弟」は助けられた人達への気持ちを垣間見るような作品である。

  「兄弟」
   お礼などはいりません
   日橋の護衛任務を果たしただけですから
   困っている人達からは
   物をもらうな金をもらうな
   借りたものはわらくずでも返せと
   毛沢東が言いました   (以下略)
会場の様子 詩人村上昭夫の誕生
 帰国した翌年郵便局に勤めるが、23歳のとき肺結核発病し、岩手医大サナトリウムに入院し左肺を殆ど切って3年で退院。入院患者の高橋昭八郎から詩作を勧められことが、詩人村上昭夫誕生のきっかけであった。
 初めて書いたであろう詩のような文章のような「存在」という詩をみつけた。肺結核を発病して、あすにも血を吐いて死ぬかも知れない自分の魂を宇宙のなかに見つめ続けて書いた「決心書」のようなもの。死は怖くないと叫びながらしかし怖い。おれの存在はどこに行くのだろう・・・と。死と対決して闘ったり、しょぼくれて泣き叫んでみたり揺れ動いたりしたが、詩をたどってみると捨て鉢になってくるのが見える。しかし詩人はそれを詩という言葉で顕していくところがすごい。

  「虎」
   虎にでもなろうではないか
   綱渡りをする場末の虎ではない
   だんだらもようのびろうどの肌で
   びょうびょうと笛を吹こうではないか  (以下略)

 この詩は宮沢賢治の足音が聞こえてくるようで賢治の影響がみえる。賢治にあこがれ、師と仰ぎ、信奉した昭夫は、しばらくは賢治の精神を取り入れた詩を書いている。
 次の詩は世界の平和を探すにはどうしたらよいのか考えていた一時期の昭夫の姿がみえる。

  「ねずみ」
   ねずみを苦しめてごらん
   そのために世界の半分は苦しむ

   ねずみに血を吐かしてごらん
   そのために世界の半分は血を吐く  (以下略)

会場の様子 「クロ」との出会い
 犬との出会いから昭夫の詩ががらりと変わる。川に流されてきて助けられた子犬「クロ」、自宅で療養していたころ、この「クロ」と毎日のように岩山を散歩していた。

  「犬」
   犬よ
   それがお前の遠吠えではないのか
   また荒野の呼び声と伝えられる
   月に向かって吠えるのだと言われる
   それがお前の不安な遠吠えではないのか
   (以下略)

  「豚」
   悲鳴をあげて殺されて行け
   乾いた日ざしの屠殺場の道を
   黒い鉄槌に頭を打たせて
   重くぶざまに殺されていけ  (以下略)

 どうせ殺されるなら自分から進んで行けということを、昭夫自身に置き換えたら・・・どうせ死んでいくのだから、死から逃れられない自分と重ね会わせたのではないか。

 詩集「動物哀歌」を出せたのは「クロ」のお陰と話してくれた。私は「クロ」のことを書く時には、愛犬ではなく「昭夫の親友」と書くことにした。「クロ」との関係はペットや愛犬ではない。動物と人間の付き合いの本当姿をみるようだった。

  「私をうらぎるな」
   夜を見はってつながれている犬たち
   私に向かって吠えるな
   私が誰なのかを知ったら
   吠えることはできないだろうに  (以下略)
会場の様子  昭和34年仙台の厚生病院に再び入院。病院では仲間と騒いだりして少年のようでもあり、ガキ大将のようであった。仙台で「親友クロ」への思いを馳せながらの作品がある。

  「五月は私の時」
   五月には
   私は帰らなければならない
   今の仙台の病院から故郷へ帰って
   私の犬へ予防注射をしてやらねばならない

 昭夫を元気にさせてくれたのは主治医の先生とクロであった。詠う動物の姿がクロとの出会いによって作風が変わっていった作品に「鶴」がある。

  「鶴」
   あれが鶴だったのか
   いまになって思えばはっきりいえる

   私は失望していたのだ
   日毎の餌にことかかない檻のなかで
   優雅な姿を見せていた鶴のことを (以下略)

 この作品は、昭夫の気持ちが変化してできた作品といえる。川に流されてきた野良犬と親友となった犬の宿命など動物たちの宿命があり、人間も動物も自分勝手な甘っちょろい考えは止めようと、昭夫は考え始めている。それが「鶴」であり、「雁の声」である。

  「五億年」
   五億年の雨が降り
   五億年の雪が降り
   それから私は
   どこにもいなくなる

 人間が小さな脳でいろいろ考えていたことが一体どこに行ってしまうのだろうか。
と思ったときに兄昭夫は自分の存在の思いが消えるまでに5億年の雨と5億年の雪が降るまでと感じていた。この世界のすざましさは一体何だろうか。村上昭夫は昭和43年41歳でこの世を去りました。こんな声を聞きながら逝ったのだろう。
会場の様子
  「雁の声」
   雁の声を聞いた
   雁の渡ってゆく声は
   あの涯のない宇宙の涯の深さと
   おんなじだ

   私は治らない病気を持っているから
   それで
   雁の声が聞こえるのだ  (以下略)
会場の様子  最後に次の詩を紹介したい。
動物は人間に接しなければきれいでいられる。人間に接したがため犬が犬でなくなり、人間は人間の誇りを失い、金儲けのために動いている。40年前、村上昭夫はすでにこのことを感じていた詩である。

  「精霊船」
   その川はなんという名の川なのだろう
   流れているのは故郷の川なのに
   その川はもっと遠くに
   もっとはるかに
   精霊の船が燃えている  (以下略)

 村上成夫さんの「詩人村上昭夫」と「兄昭夫」への想いを込めた語りと朗読は、「村上昭夫の世界」に引き込み感動の2時間でした。お二人に厚くお礼を申し上げます。
なお、スペース関係で朗読していただいた詩を全て紹介できませんでした。ご了承下さるようお願いします。 (文・写真 さとう)