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第37回文化サロン 平成20年1月24日

「エピソードでたどる岩手県の現代史」
ゲストスピーカー 及川 和哉氏 (社団法人岩手県文化財愛護協会理事長)
第37回文化サロンのチラシ プロフィール
 1933年大東町(現一関市)生まれ。水沢高校を経て日本大学法学部卒業後に岩手日報社入社。編集局学芸部長、事業局次長を勤めた後、1992年に退社。
主な著書
 『図説盛岡四〇〇年』(川口印刷工業発行)『ひだりづま』『琢木の古里』(共に八重岳書房発行)『21世紀の忘れものー明治・大正・昭和 岩手県民の現代史』(熊谷印刷出版部)などがあります。
ゲストスピーカー 及川和哉氏
 今回の文化サロンは、未明から雪が降るという悪天候の日となりましたが、いつものように皆さんにご参加をいただき、無事開催することができました。
 ゲストスピーカーの及川和哉さんに、2002年に刊行した自著『21世紀の忘れものー明治・大正・昭和 岩手県民の現代史』(熊谷印刷出版部)の中から現在の社会問題につながる出来事やエピソードを取り上げて現代史を語っていただきました。
及川和哉氏の著書「21世紀の忘れもの」  この著書は、20世紀の100年間の新聞記事をもとにしたコラム、「岩手日報に見る 20世紀の記憶」(2000年の1年間岩手日報に連載)をまとめ、『前者の轍を踏まないよう「21世紀の忘れもの」と改題して次代におくりたい』(筆者の前書きより)として出版されたものです。

 及川さんは最初に、歴史とは過去の出来事などの記録であるが、そのことが今の世の中にいかに引き継がれ、現代にどのような影響を与えたか、為政者や学者などが教訓として生かしたのか、何もしなかったのか、時代の先取りに役立てたかなどを検証する面白さがあると、話された。
★M40年 農業は国の基本産業(格差社会)
 明治38年の大凶作以来農民の離農が続き農村人口が急減して社会問題となり、内務省は東北各県に農業救済を訴えた。
 「文明の普及に従い農村衰退。政治家も学者も『農業は国の基本産業』と説くが現実は商工業者の所得が増えるが農家収益は変わらず、農村人口が流出。この反比例現象はどうする。」その後も農業救済策が論じられた。岩手県でも反比例現象は今も続く。
 日清、日露戦争のため農村から徴兵したことが農村の衰退に繋がった。戦争で産業が発達しその利権が生じ、実業界の発言が強くなり、財閥と政治が結びついていった。日露戦争に勝ったのではなく、戦費を使い格差社会を生んだのである。

★M43年 祖国を葬って喜ぶ者ありや(日韓併合)
 明治43年8月日韓併合調印。この年の秋の祝日、日本当局が日の丸を掲げるよう勧告し京城(ソウル)市民は先を争って軒々に掲げたという。だがこれは表向きのこと。合併はしたが朝鮮の人々は「表面平静にせし者、決して無関心にあらず。祖国を葬って喜ぶ者ありや」=青柳南冥「朝鮮統治論」
 日韓関係は、昨日外務副大臣が陳謝したように未だに尾を引いている。日中関係、靖国神社問題は歴史認識の違いではない。

★M43年9月 護岸は市民の富の象徴に(文化的景観)
 中津川が豪雨で大氾らん、家屋等に大きな被害を出した際、内務省の技官が復旧工事は、「莫大な費用を投ぜず川幅をそのままにして街と川の調和を図りながら強い護岸を築くのが最良。その護岸を街の発展と市民の富の象徴に…」とアドバスした。盛岡自慢の景観はこうして復旧した。
 昭和30〜40年代、観光客の盛岡の印象は、「城下町」「みちのくの小京都」「川と森の都」であった。今は川と森はあるが風情がなく、小京都と言えるだろうか。県は文化文化芸術振興基本条例の制定を目指しているが、文化的景観づくりのビジョンが見えない。「景観を市民の富の象徴」の後が続かない。
会場の様子 会場の様子
会場の様子 ★大正3〜4年 素人目で古都よみがえる(平泉の世界遺産)
 大正3年に一関中学の教諭が「素人目ながら、中尊寺・毛越寺に匹敵する寺院は東北には見当たらない」と仏像や蒔絵などを「平泉の美術」として新聞に連載した。
 これを知った堤知事が「こんな大遺産を知らないのは国家の不幸」と平泉保存を国に熱心に要望して認められ、県政の柱に復興計画を策定、予算を組んだ。古都平泉はこうして息を吹き返すのである。
・大正14年は中尊寺堂塔を建立して800年。その記念祭が5月に開かれ、あまりの人出に中尊寺・毛越寺の井戸水が枯れたという。
 新聞が「12年前、堤知事が古都復興を計画、第一期工事で観光道路開発が成った。しかし、第二期の大泉ヶ池の整備など、第三期の中尊寺建造物の永久保存と昔をしのぶ設備つくり…は政変で堤知事が去りこの計画は消えた」と紹介した。そして800年を機に復興計画の復活を訴えた。

 平泉の世界遺産登録に向けて運動しているが、それにつけてもこの計画を続けていればよかったと思う。この復興のチャンスを生かさなかったのは残念であった。外国の世界遺産の多くはヴェネツィアなど街全体(面)が対象となっているが、平泉は中尊寺・毛越寺だけではとの指摘で浄土思想を入れた。しかし浄土思想をどう伝えるか難しい。

★大正10年 国民の司法参加「陪審制」
 陪審制の導入は原内閣の課題の一つで、大正10年1月に初めて法案が提出された。原首相は法案の成立をみることなく凶刃に倒れた。
・その後昭和3年10月1日になってやっと陪審法が施行され、この日を「司法日」と定め一等国の仲間入りを祝った。
 この制度は控訴ができないなど問題もあったが開かれた裁判制度であった。だが戦時中に中止、復活することなく眠り続けてきた。
 中止されたのはお金がかかる問題もあった。近く発足する制度も法律を熟知していない一般国民が裁判官に丸め込まれるのではという危惧がある。

★大正12年 県民に馬と親しむ機会を(岩手競馬)
 岩手の競馬は明治17年に始まって以来何度か赤字を乗り越えてきており、大正期も不振続きであった。大正12年に勝ち馬投票(馬券)が復活して人気を盛り返した。だが県は「県民が馬と親しむ機会が少なかった。快活な競馬は国民的娯楽。同時に優良馬の生産が目的。このPRを怠るな」と手綱を締めた。
 しかし、これが生かされずいつの間にか県や市の財政を増やすため賭け競馬になってしまった。馬に乗ったり花見ができるなど、みんなで楽しめる場所をつくるとか、相乗効果を求めるべき。

会場の様子
★昭和20年8月21日 強国より大国を目指せ
 敗戦のショック、先行き不安と恐怖、ファシズムからの開放…複雑な思いの県民に、新聞は「思想の転換」と題して社説を掲載した。「敗戦は政治指導の失敗だが、国民は逃げも隠れもできない。過去の過ちを反省、新しい世界観を描くため国民思想の転換を…」
 翌9月、東京帝大のフランス人教授が「再建日本」の指針を新聞に寄せた。「かつての強国フランスは、今は世界に役立つ大国を目指している。世界は武の強国より文化の栄誉と善の大国を尊ぶ。日本も大国になれ…」と。―この言葉を21世紀に贈ろう。
 昭和21年11月3日、新憲法が公布された。外人記者は「世界のどの憲法より明確に国民の権利と平和、自由を規定している。国民の権利義務に関する条項などは米国憲法をしのぐ…」と評価した。
 この憲法は、アメリカの押し付けでなく、力を借りて出来たものである。

 及川さんは、以上のほかに「市町村合併」にも触れて、昭和29年に新生「玉山村」の誕生で啄木の古里「渋民村」の名が地図から消え問題に、良いことと悪いことの判断がつかないと、指摘した。
 また、最近話題の「ゆとり教育」に関連して、大正時代も「受験偏向教育」の弊害で考える力を養う「情操教育」を無視していると指摘されていた。昭和25年には「社会も父母も教育参加」という教育改革で週5日制にしたが、学力低下の心配などの反対から1年で6日制にもどったこと、昭和32年には「自学学習主義」が、基礎学力が低下したと「詰め込み式」の改定案が出されて論争を招いたことなどを紹介して、歴史は繰り返していると述べた。

 このような事例から反省や参考にする場合はその形をでなくその心、真に意味するところを汲み取ることが大事であること、また、人の評価は何をやったかで定まるものである、と及川さんは強調された。
 今日は雪の中をお出でいただきありがとうございました。(文・写真 佐藤)