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 第36回文化サロン  平成19年12月20日

「南部藩と戊辰戦争」
  ゲストスピーカー   高橋 清明氏 
(盛岡歴史研究所代表・前盛岡中央公民館館長)

プロフィール
 1946年盛岡市生まれ。
 学習院大学法学部政治学科卒業後、昭和45年4月より盛岡市に勤務。盛岡中央公民館学芸係長、盛岡市教育委員会文化課主幹などを経て、平成16年4月より盛岡市中央公民館館長に就任。平成19年3月に退職。
 その後盛岡歴史研究所を開設する。
 主な著書(共著)
『いわて未来への遺産 盛岡藩の歴史と至宝』『青森県史 資料編 近世4 南部1 盛岡藩領』など
 今年最後の文化サロン「南部藩と戊辰戦争」にたくさんの方がいらしてくださいました。いつもより男性が多いようにも思われます。
 高橋清明氏は「戊辰戦争を東北の側からとらえることは難しさいですね。」と話始められました。
1.東北戊辰戦争の難しさ
2.戊辰戦争の全体の流れ
3.南部藩と戊辰戦争との関係
4.南部藩の方針転換の背景
5.南部藩の鹿角口攻撃選択の理由
6.南部藩の降伏と敗戦―経過と結果責任ー
7.戊辰戦争の歴史的意義
 上記表題に添って詳しく講義してくださいました。そのなかのごく一部を紹介します。
 勝ち組からとらえると近代日本を創出するために必要な戦争だったということになるが、負け組みからはプラスの意義を見つけるのはなかなか難しい。敗者でも会津藩は「敵ながらあっぱれ」と評価されるが、南部藩はどちらかというと不名誉な敗者で、よりとらえにくい。味方のなかの敵秋田藩との戦い、秋田戦争とは一体どんな戦争だったのか。どうして同じ東北人同士で戦わなければならなかったのだろうか。
 戊辰戦争は、第1.鳥羽伏見の戦い、第2.江戸の無血開城、第3.奥羽越列藩同盟の戦い、第4.函館戦争、で明治元年1月の鳥羽伏見の戦いから明治2年5月榎本武揚らの降伏までの1ヶ年半の新政府(官軍)と反政府軍との戦いである。
 東北諸藩は朝敵とされた会津藩・庄内藩の征討を命ぜられていたが、藩主、松平容保・酒井忠篤の首を差し出すよう要求した私怨によるようなあまりに厳しい処遇に同情し、白石に会合し会津藩の降伏謝罪嘆願書を九条総督に提出する。が長州藩士世良修三の影響により、九条総督は嘆願書を却下した。仙台藩は世良修三の「奥羽皆敵」の密書を入手し福島で捕らえ処刑し新政府に反旗を揚げ、奥羽越列藩同盟を結成した。東北の側からみれば新政府から仕掛けられた、売られた戦いともいえる。
 第3の東北の戊辰戦争が戦死者、犠牲者が最も多かった。戦死者(武士)8千~1万人のうち東北人が6~7千人といわれ、また戦場の広さ、戦いの時間の長さからもこの戦いこそが戊辰戦争中の戊辰戦争といえる。だがそのようにはなかなか評価されていない。
 
 明治元年1月24日盛岡藩は朝廷より会津征伐を命じられる。楢山佐渡は藩主名代として京都へ赴任するが新政府に対抗する意思を固めていく。目時隆之進と目付役の中嶋源蔵は断固反対し目時は長州藩邸へ走り、中嶋は自身の死をもって楢山をいさめようと切腹する。
 同盟を決意し楢山は帰路仙台へ向かう。藩内は新政府側につく主張多かったが楢山は反対派を押さえ、奥羽列藩同盟へ参加させた。
 新政府側に寝返った秋田藩を攻めた秋田戦争では、楢山佐渡が総指揮をとった。が次々に奥羽列藩同盟を離脱する藩がで、ついに南部藩も降伏した。
 南部利剛は領地召し上げ、隠居謹慎、その子彦太郎(南部利恭)に白石13万石への転封の命令が出された。
 楢山佐渡、佐々木直作、江幡五郎の3名が東京に護送され、楢山佐渡は反逆首謀者として刎首刑と沙汰が出された。明治2年6月23日、盛岡・報恩寺において刎首された。
 原敬は戊辰戦争殉難者50年祭に「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩とそれに関わる賊軍・朝敵の汚名を雪いだそうだ。

 近世と近代の分水嶺になった戦争とはいえ一体「江戸の無血開城」とこの「東北の戊辰戦争の悲惨さ」をどう理解したらいいのだろうか。裏切りと正義が交錯した日本人同士の戦い。一体何だったのだろうか。
 高橋清明氏は、夷をもって夷を討つ戦争だった東北の戊辰戦争がもっと評価されてもいいのではと何度となく語られた。それは怨みの怖さや平和へのメッセージをそこから読み取り伝えたいからではないかと私なりに理解した。今日は、長い時間ありがとうございました。                  (写真・記 小泉)