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               第34回文化サロン      平成19年10月18日

   「深沢紅子 野の花の心を伝える」
  ゲストスピーカー  佐藤 晴久氏 (社団法人深沢紅子野の花美術館館長)
プロフィール
 1942年盛岡市生まれ。
 法政大学経済学部卒業後盛岡市勤務。企画財政部長、企画部長を経て平成11年9月18日に退職。その後すぐに盛岡市収入役に就任し、平成15年9月1日退任された。
 平成17年6月13日、社団法人深沢紅子野の花美術館館長に就任された。
 
 深沢紅子さんとのご縁は盛岡市に勤務していた時に市制百周年の記念誌にエッセイと挿絵をお願いしに深沢家を何度か訪ねた時からだそうです。



 「深沢紅子さんは、このようにモダンな美人でとてももてたんですよ。」と
話される  佐藤館長さん。
 市制百周年記念誌の
←深沢紅子さんの挿絵勿忘草とエッセイを皆さんに披露された。
下記をクリックして素敵な挿絵と紅子さんの愛情あふれるふるさとへの思いを是非ごらん下さい。

野の花美術館建設まで
1.構想 
昭和54年 隣家からのもらい火で東京練馬のアトリエが火事になり作品を消失。スケッチブックは僅かに残存。昭和64年 入院。家族が美術館構想を説明。候補は3ヶ所で軽井沢、山中湖畔、盛岡。紅子さんは、候補地を尋ねられ即座に「そりゃ盛岡よ」と答えられたそうだ。
2.建設運動の始まり
深沢紅子「野の花」を盛岡に迎える会。世話人久慈吉野右衛門、河野逸平、川村徳助、顧問工藤巌
3.建設運動の組織
平成3年 野の花美術館設立準備会発足。建設趣旨『深沢紅子の業績顕彰と文化都市盛岡の形成』
4.ユニークな募金活動
「1個3千円のレンガの購入を」と呼びかける。約2,900人、団体から2,250万余円が集まる。
5.建設概要
所在地 盛岡市紺屋町4−8・土地 195.5u(盛岡市からの無償借用)・建物 311.3u
建設費 1億472万余円(補助金 市7千万円、県2千万円、寄付金)
6.開館までの過程
平成7年9月建設着工。平成8年9月開館
7.入館者は平成9年度は21,000人、12年度13,200人、16年度8,700人、年毎に減少している。19年度は「どんど晴れ」効果でいくらか増える見込みだそうです。
 盛岡の街並みや中津川の景観を考慮して蔵造り風の今の美術館の建物になった経緯を語られた。
 ただあまりに狭いこと、駐車場がないことなどでさまざまな弊害もあり苦労されていること、また狭いなら狭いなりの良さを引き出すような企
画をいろいろと考えられていることなども話された。

深沢紅子さんの人生における出会い
四戸慈文(佐々木熊蔵)1877〜1952年北海道札幌生まれ、両親は盛岡。洋裁業を営む。四戸家の養子となる。紅子は慈文と四戸キヌの子として明治36年盛岡に生まれる。。仏教に帰依し、教士の資格取得。願教寺の島地大等の命名により慈文と称す。社会事業家であったことが知られている。物事を説明する時に絵を描いて解説したという。とても器用で着想に優れた人だった。また紅子に絵を観る機会を与えた。
後年の述懐として「自分は絵描きになりたかった」とも語っていたそうだ。
←「花はみな人に折らせて根百合かな」慈文の残した言葉で、大事な物は人の目に見えないところにあるということ。物質より精神の豊かさを求めた人だった。紅子は人間味あふれる父親の良いところを余すところ無く受けついたのではないかと話された。
佐藤瑞彦 1893〜1981年、紅子が通った岩手県師範学校付属小学校の図画教師で紅子の才能を見出し絵を描くことをすすめた。後に東京自由学園初等部主任、盛岡内丸学園理事長・盛岡幼稚園園長となる。紅子は、この教師の影響もあり、いい絵、心を打つ絵とは、上手な絵とは違うのだと考えるようになった。
岡田三郎助 1869〜1939年東京美術学校(東京芸大)西洋画科卒業、女子美術学校(女子美術大)教授。紅子は若い時池田龍甫に日本画を習っていたこともあり、大正8年女子美の日本画科に入学した。その後ゴッホの絵を観て洋画を学べばもっといい日本画が描けるだろうと思い、油絵科に転科し、岡田三郎助に師事した。
大正12年、女子美卒業後同郷の深沢省三とに結婚。大正14年には第12回ニ科会展で2点初入選した。
和田三造 1883〜1967年 東京美術学校(東京芸大)西洋画科卒業、日本色彩研究所理事長。紅子は岡田三郎助の紹介で和田三造の日本標準色協会創立に参加する。ここで500に及ぶ色を研究し色彩について学んだ。

 紅子は終戦直後盛岡に戻り、一時期開拓に従事した。お百姓は大変な知能者だ、生活に必要なあらゆる事を知っていると感心し、その後、「農婦」をテーマにした絵を描く。昭和22年、敗戦で興廃した子供達の心を取り戻すには情操教育が必要だと絵画教室を開く。
 昭和34年の「立てる少女」は、文部省に買い上げられ国立近代美術館に飾られている。昭和30年以降が最もたくさん絵を描いたといえる。

交流のあった作家・詩人達
・菊池武雄は、吉祥寺に住んでいた時の隣人。宮澤賢治の「注文の多い料理店」の挿絵を描いた。紅子は、たまたま菊池武雄が不在の時に訪ねて来た賢治と会っている。
・立原道造とは、昭和12年津村信夫の詩集「愛する神の歌」の挿絵を頼まれて行った信州追分で初めて会った。立原道造が盛岡に来たのは昭和13年、「盛岡ノート」に盛岡の叙景や印象を綴っている。紅子の紹介で四戸家の別荘の生々洞に9月から10月、1ヶ月間滞在した。道造は半年も経たない昭和14年3月29日に亡くなっている。
堀辰雄とは立原道造が亡くなり病院から出棺された折に出会った。その前から堀辰雄の詩集の挿絵は描いていた。その後夫人の絵なども描いている。
他にも巽聖歌、林芙美子、壺井栄、川端康成などとの交流があっそうだ。
 最後に佐藤館長さんは、絵の観かたについてふれられ、作品とじっくり向き合って野の花が咲いている状景を観、小鳥の囀りや木々の葉ずれの音や香りなどを聴き、木の実が描かれていたらどんな味か味わい、絵の中の風や光を感じ、このように五感で感じとって、心安らかになってほしいと語られた。
 深沢紅子の野の花の心とは飾りようのないありのままの姿、そこでしか咲きようがないというもので中国の古典、洪自誠の「菜根譚」に載っている「富貴名誉、自道徳来者。如山林中花、自是舒徐繁衍。」 徳望によって得た富貴名誉は、自然の野山に咲く花ののようで、自然に枝葉が伸び広がり、十分に繁っていくものであるこのような思いを紅子も知らず知らずのうち持っていたのだろうと話された。
 平成4年3月24日に深沢省三が亡くなり平成5年の一周忌の後、3月25日に紅子は永眠した。北山の聖寿禅寺の四戸家のお墓には「紅ここに帰る。人知れず野の花のように」とあるそうです。

盛岡市紺屋町4−8  TEL019−625−6541 http://www11.plala.or.jp/Nonohana/

 聴講者から小中高の学生さんが社会見学で野の花美術館にたくさん訪れるよう教育委員会に呼びかけたらいかがなものかというような声も上り、私は、深沢紅子さんの野の花の心を多くの人たちに伝えたい、感じてもらいたいと心から思いました。たぶんサロンに来られた皆様も同じ思いだったことでしょう。
 本日はたくさんのお話をありがとうございました。                    (写真・記 小泉)