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 第28回文化サロン      2007年 4月19日(木)

『萬鉄五郎とその時代』
ゲストスピーカー   千葉 瑞夫氏(萬鉄五郎記念美術館館長)
プロフィール
1931年2月1日仙台市に生まれる。
1954年に岩手日報社に入社、編集委員、一関支社長などを務めた後、1991年定年退社。
1991年4月萬鉄五郎記念美術館長に就任、現在に至る。この間岩手県立美術館構想に参画し、県美術品収集評価委員長を務められた。
また長年日本民俗音楽学会会員としてわらべ歌を研究され、1995年に武田忠一郎賞を受賞された。

主な著書
『岩手のわらべ歌』、『愛と先見の人 煙山専太郎』、編著として『萬鉄五郎 鉄人アヴァンギャルド』、『深沢省三・紅子画集』など
DVD『萬鉄五郎の生涯』
 スピーカー、ビデオチューナー、プロジェクターの機材一式をご持参いただき、萬鉄五郎記念美術館制作のハイビジョンビデオをDVD変換した『萬鉄五郎の生涯』を映写してくださった。
 映し出された絵画の強烈な色彩、ダイナミックなフォルムに圧倒され、あらためて萬鉄五郎の天才ぶりに魅せられた。
卒業制作「裸体美人」
 萬は、1885年11月17日花巻市東和町土沢に生まれる。18歳で早稲田中学3年に編入し絵画同好会に参加。その後22歳で東京美術学校西洋画科入学。27歳、卒業。
 卒業制作は「裸体美人」「自画像」。後に国の重要文化財となった「裸体美人」は当時の教授らを困惑させ卒業の是非までが論じられたそうだ。
 教職の資格も得ず、卒業式もボイコットし、黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、前衛的な画家として生きていくことになる。第1回フュウザン会作品展に「ボアの女」「煙突のある風景」、第2回フュウザン会作品展に「日傘の裸婦」など出品。
実験的な作品制作に没頭
 29歳、生活苦もあり土沢に帰郷。ここで自画像の連作。赤、緑などの原色による色彩表現からモノクロ、褐色へと変わる。また形態の解体、キュビスム的実験や模索の作品制作に没頭する。
 31歳、再び上京、第4回二科展に今では、キュビスムの到達点として最高の評価を得ている「もたれて立つ人」ほか出品したが、さまざまな物議を醸し、当時は、ほとんど顧みられることはなかった。
南画への興味
 34歳、病気療養のため神奈川県茅ヶ崎に転居。南画に興味を持ち水墨画を描く。二科展に「木の間から見下ろした町」ほか出品。その後南画研究の成果がみられる「水衣の人」「ほほ杖の人」「水着姿」などの次々に名作を残す。
41歳の若さで逝去(1927年)
 1931年「萬鉄五郎画集」平凡社から刊行される。
初の萬鉄五郎回顧展(1952年)
 神奈川県立近代美術館で開催され、美術史的評価の機運を生み出す。その後劇的に評価が高まっていく。特に欧米での評価が高い。
映写された2つ目のDVD
 萬の絵の基本色、赤、緑は、郷土の土の色の赤、風景の緑、みちのくの色ではないか。また郷土に伝わる神楽、身に着けていた衣類の色彩、縄文から伝わる骨太の造形などが、西洋に無い独特の画風を生み出したのではないか。など画家萬鉄五郎の生まれ育った背景などを探求するものだった。また「宝珠をもつ人」は、東和町の毘沙門天をモチーフにした作品とされていているそうだ。
手作り萬鉄五郎の生涯DVD 国所蔵の裸体美人ともたれて立つ人 萬が身に着けた涎掛け
岩手での評価は惨憺たるものだった 
 1965年千田知事を囲む美術家の懇談会が開かれ岩手の美術館建設運動がスタートした。その数年後の1970年、岩手国体がくることになり同時に岩手の物故作家を集めた国体記念展が開催されることが決まった。当時岩手日報の記者であった千葉瑞夫さんは、萬鉄五郎を中心に作品構成をと提言したが、最初は、はねつけられそうだ。
萬作品の収集が始まる
 記念展のために萬の代表作を集めだすが県外に流出していて県内には無いのだ。探す中、奈良県に萬の収集家の八木氏がいることがわかり、記念展に出品する作品は借りることになった。その後八木氏から萬家にいただいた未整理の萬の作品が100点ほどあるとの連絡があり、千葉瑞夫氏はじめ、奈知安太郎氏、工藤昭二氏、伊藤喜助氏、高橋喜太郎氏ら6人ほどが北ホテル(菊地旅館)にて来訪を受けた。一同の前で広げられたのは、裸体美人などののデッサン、水墨画の写生帖などで感激と興奮に包まれたそうだ。その後吉田宏さん、中村直知事さんなどさまざまな人の関わりの下、「作品は生まれ育った地に展示する方がよい」という八木さんの真意もあり割安に岩手県が購入することになった。
 森嘉兵衛氏、佐々木一郎氏らが奈良に赴き目録作りをし334点の移管が決まった。岩手県が修復作業をした後、県民会館落成記念行事に旧八木コレクションを公開展示した。ちなみに国所有の「裸体美人」と「もたれ立つ人」は、八木氏が寄贈したものだそうだ。
1100点の遺作の寄贈
 1974年、萬家から遺作1100点が寄贈されることになった。萬博輔氏は、空から土沢を観て「父の絵にそっくりだ。風土の中でこそ作品は生かされるものだ。」と語ったという。
 こうして岩手は、上記以外のものも合わせて1700点を越す萬コレクションを持つことになった。1979年、県立博物館が開館し、萬の作品は同館の近代美術部門で所管されることになる。
萬鉄五郎記念館開館
 1984年、郷里東和町土沢に没後60年近く経ち、記念館が開館した。
 1991年に千葉瑞夫氏が館長に就任。その後、萬鉄五郎記念美術館に改称され、美術館としてさまざまな新しい取組を企画し県内外に広く知られることになる。
萬の歴史的評価
 1997年東京、京都の両国立近代美術館と岩手県立博物館の3箇所で開催された「絵画の大地
を揺り動かした画家 萬鉄五郎展」や1999年ドイツの美術館で開催された「もう一つの近代展」で萬の抽象表現が紹介され、日本のカンディンスキーと賞賛されるなどますます萬の評価は高まっている。
岩手県立美術館が開館
 それに伴い県立博物館から近代美術部門が県立美術館に移管された。

 長沼守敬、深沢省三、橋本八百二、奈知安太郎、森口多里氏など岩手の美術に先駆的な役割を担ったり、萬を美術史に定着させた人物にも触れられたが、あっという間に2時間が経ってしまい詳しく伺えずとても残念だった。
 千葉瑞夫さんが、萬鉄五郎にこれほど深く関わり、17年も萬鉄五郎記念美術館の館長として萬の研究を深め、顕彰に身をささげていらしたその情熱は、どこから来ているのか、とても温和な印象からは想像つかなかった。
 千葉さんが何故、評価低かった萬に魅せられたのかを次回は是非とも伺いたいものだ。
 今日はたくさんのお話と映像をありがとうございました。                   (写真・記:小泉)