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 第27回文化サロン      2007年 3月15日(木)

「戦国時代を駆けた二人の男   葛西晴信と九戸政実」
ゲストスピーカー    森 ノブ氏(岩手古文書学会会長)
プロフィール
1938(昭和13)年盛岡市に生まれる。岩手大学在学中より森嘉兵衛氏に師事し、歴史研究に専念。
昭和61年より岩手古文書学会会長を務めているほか、岩手史学会評議委員、東北史学会評議員、盛岡市都市計画審議会委員などの要職を務めている。

主な著書(共著)として「楢山佐渡のすべて」・「岩手の群像」・「盛岡藩雑書」(翻刻)など多数。

平成9年に岩手県教育委員会「岩手県教育表彰」を、平成12年には文化庁「文化財保護法50年記念功労賞表彰」を受賞。
 今回の文化サロンは、長年の歴史研究の成果に基づき、戦国時代に生きた葛西晴信と九戸政実の二人の領主に焦点をあて、いかなる最期を遂げたかにより、残されるその後の史料に大きな差があることについて話していただいた。
九戸政実の残された史料
中世の秀吉に対する最期の反抗者といわれている九戸政実には、全くといっていいほど史料が残されていない。
南部信直が秀吉に九戸討伐を要請し、討伐軍が天正19年8月から9月にかけて九戸にやってきた。九戸城には5千人ほどの兵が篭城。討伐軍は、なんと6万以上、12倍もの兵が城を包囲したが、なかなか墜ちなかったため策略が謀られた。九戸氏代々の菩提寺の長興寺の和尚に嘘の奉書を持たせ城を開門させた。
自分たち以外は助けられると信じ政実と側近合わ
せて8名が城を出た。その後、宮城県三ノ迫に於いて刎首された。城内の九戸一族も一人残らず斬殺され、九戸氏は滅亡した。
政実が斬首されたのは55歳、城を出て三ノ迫に行くまで時もあり、歌の一首でも残すことはできたと思われるが、騙されたと感じた時から口を噤んだのか、何も残っていない。なかなかの武将であった政実が55歳まで何ひとつも書き残していないということは一体どうしてなのか。
森ノブ氏は、アイヌが文字を使わなかったように、九戸政実は、口から出した言葉を重んじるような、文字が必要のないところで生きていたのではないか、また北緯40度以北は大和の文化が入りにくいところだったのだとも話された。
葛西晴信の残された史料
大崎氏との抗争に明け暮れて小田原攻めに参陣しなかった葛西晴信は改易され領地は没収された。改易後に諸国を流浪、前田家に預けられたとか、伊達政宗に忙殺されたとか様々に伝えられているが、実は誰も晴信の最期を知らない。そのことが後世の人に様々な憶測を呼び、古文書も真偽含め数多く残されたのではないかと話された。
森氏は学生時代から葛西氏を追い続けているそうです。
岩手県史、中世古文書調査の時には、1週間に10軒以上、多い時で日に5軒を回ることをし、それによって葛西家の偽文書がわかってきたそうです。葛西古文書で鼎印に突起がないものや高崩花印も偽書で、
葛西文書の偽書は300枚もあるそうです。
古文書には後世の人の憶測からの偽書、また作為的な偽書がこれほどたくさんあるものなのだとは知りませんでした。私は中世の歴史はよく分かりませんが、森さんのお話を伺って、古文書の真偽や歴史を紐解く難しさ、面白さが少しだけわかったような気がしました。
本日の文化サロンは、今までで最も多い90名もの方にいらしていただきました。胆沢や二戸の地域の方もいらしていて、古文書や歴史に関心のある方が多いことを知らされました。
また質問された方も多く、「九戸政実の古文書をもっと調べてほしいと」などと森ノブさんへの期待もたいへん大きいようでした。
岩手古文書学会から出されている
 『岩手の古文書』第二十号
森嘉兵衛氏の「中尊寺遺体調査日記」が
 掲載されています。
本日は、資料や椅子の不足などで皆さんに大変ご迷惑をかけ誠に申し訳ございませんでした。
またいろいろご協力いただきありがとうございました。                        (写真・記 小泉)