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 第24回文化サロン      2006年12月21日(木)

「奥州平泉と源義経」
ゲストスピーカー    金野 静一氏
                 (前岩手県教育弘済会理事長)
・プロフィール
岩手県東磐井郡大東町に生まれる。大学卒業後岩手県内の高校教諭となり、県立盛岡第二高等学校長を経て、盛岡大学短期大学部教授、岩手県立博物館長、岩手県文化財保護審議会長、岩手県文化財愛護協会長、岩手県教育弘済会理事長を歴任。
そのかたわら精力的な執筆活動を展開。
・主な著書
「気仙風土記」高田活版、「岩手の伝説」角川書店、「三陸物語」杜陵印刷、「いわて河童物語」熊谷印刷出版部、「大船渡市史民俗編」熊谷印刷出版部、「子供の健全育成のために」熊谷印刷出版部、「鬼の面」杜陵印刷「民族風信帖」熊谷印刷出版部「義経北行」ツーワンライフ、「日めくり草子」岩手日報社、「岩手県の地名」他多数
 本日の文化サロンは義経が文治5(1189)年閏4月30日、衣河館を平泉藤原氏四代泰衡に攻められ、持仏堂に入 り、先ず妻と子を害し、次いで自害したその時の話から始まりました。
 義経の首を護送しても、奥州を28万もの軍で攻めてくる頼朝、泰衡は文治5年8月21日仙台に布陣していたが退却し、平泉舘で自ら火を放った。
 8月22日頼朝平泉入り。ここの時の様子を記した『吾妻鏡』を諳んじてくださった。
 『申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。数町の縁 辺、寂寞として人無し。累跡の郭内、いよいよ滅して地のみ有り。ただ颯々たる秋風 幕に入るの響きを送ると雖も、簫々たる夜雨窓を打つの声を聞かず・・・・』
●北方の王者
平泉は京都に次ぐ都で、12万もの人が住んでいた。
昭和25年藤原氏遺体調査が行われたが、若い金野氏も助手として調査に参加されていたそうだ。秀衡の遺体は今にも動き出しそうな見事な姿で、そこに居た大仏次郎が「おお、北方の王者。九郎判官義経をかくまった北方の王者。」と言ったのを印象深く記憶しているそうだ。
●義経が蝦夷に渡る。
 義経が4月20日に自害したという飛脚が鎌倉に着くのが5月22日、そこから朝廷に知らせが行ったのが5月29日、頼朝は6月9日に法事があるので途中に逗留せしむべきの旨、飛脚を奥州に遣わしたため、鎌倉・腰越の浦に到着したのはなんと6月13日。
 首は死んでから夏場の1ヶ月半の間、黒漆の櫃に納れられ、清美の酒に浸してあったこともあり、腐乱が進み、義経と確認できたはずはない。義経の伝説がここから始まった。
 義経一行を風呂に入れそれ以来『風呂』の姓を名乗るようになったと今も伝承を語り継いでいる遠野の風呂家をはじめ江刺、遠野、川井、宮古、岩泉、久慈、八戸、十三湊など周辺各地に義経生きていたという説が地名や神社、置き土産など実しやかに伝わっている。川井村には鈴ケ神社があり、静御前を慰めるため舞われたという女性だけの踊り『こうきりこ』という芸能が伝えられているという。
 竜飛から蝦夷へ渡ったという説は、徳川光圀が編纂を命じた大日本史にも俗伝としての記述がある。金野先生が義経北方伝説を新聞に掲載し終了した時、北海道のも書いてくださいとの問合せがあったそうです。その人は苫小牧の北海道義経伝説の会の会長さんでたくさんの資料を見せていただけたとか。内地と同じような伝説だが、道東には義経悪人伝説があるそうです。寿都、平取町には義経神社があるが、これは幕府の命を受け義経伝説を調べに行った近藤重蔵が自分に似せて江戸の仏師に彫らせた義経像を祀らせたのがはじまりだとか。
 アイヌの神『オキクルミ』を『おんくろき 義経』が同一であるかのように伝え、北海道が日本の「領土」であることを主張する理由づけをしたのだろうか。悪人説まであるのはそんなところからかもしれない。
 明治14年に開通(小樽札幌間)した鉄道で明治天皇が初めて北海道巡行をした。その機関車は義経号。次に弁慶号、しずか号もできたとか。昭和58年北海道開通100周年には、各地に散らばった義経号としずか号を探しだし、会い合わせたとか。そんな余談も話された。
 伝説はロマンだけであったらいいのだがそこを利用して人民の心を操ることも無きにしも非ずなのだ。
●義経ジンギスカン説
 シ−ボルトは著『日本』で友人が「義経はジンギスカンになった」と信じていると記しているとか。幕末の頃には、義経が蝦夷を経由して中国大陸にまで行ったという説もあったのだ。
 明治に入りると、伊藤博文の知遇を得て末松謙澄という記者は、外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジに学び、はじめて源氏物語の英訳をした。またイギリスで『義経はジンギスカンである』という論文を英文で書いた。それをイギリスの古本屋で見つけた人が日本に持ち帰り、大ブームになった。
 秋田県出身の小谷部全一郎が虐げられているアイヌ民族を助けようとこたん部落に入ったが、逆に助けられその恩返しにアメリカ留学を思いつき何度も密航を企てついにエール大学を卒業し、牧師の資格も得、後に初めてアイヌに学校を創設した。
 金田一京助は「アイヌの救世主」と述べたという。その小谷部が陸軍を動かしモンゴル調査をし大正13年「成吉思汗は源義経也」を出版。「義経=ジンギスカン」説を主張し、当時の大陸進出熱とも相まって、一大センセーションを巻き起こしたという。
 アイヌの救世主とまで言った金田一京助は、このジンギスカン説に関しては真っ向から否定した。あまりのブームに中央史談の特集が組まれ沈静化がはかられたが、英雄不死伝説は、何度でも浮上するようだ。


サインをしてくださった金野先生
 金野先生は何度も「この義経ジンギスカン説は近世になってからなのです」と繰り返され、伝説に隠された歴史認識の面白さや大切さを語られた。
 義経ジンギスカン説はどうも中国大陸の利権を狙い、大陸に渡って開拓を進める日本人を鼓舞するために、かつてユ−ラシアを支配した偉大な先祖ジンギスカンは義経だったことにしようとしたのか・・・・。
←最近熊谷印刷出版部から出された『平泉物語 藤原氏四氏の盛衰』は義経北方伝説ではなく藤原氏の物語です。
 今回の文化サロンは義経北方伝説、ジンギスカン伝説などが中心でしたが、次回は是非とも『平泉物語』を語っていただきたいものです。あっという間の楽しい2時間をありがとうございました。   (写真・記:小泉正美)