現在の位置:ホーム >文化サロン >第23回文化サロン

第23回文化サロン      2006年11月16日(木)

「軍服の平和論者米内光政  淡々と淡々と」
    ゲストスピーカー  及川 三治氏
        (前盛岡市先人記念館館長)
・プロフィール
 1939(昭和14)年5月5日、金ヶ崎町に生まれる。
 県立水沢商業高校を経て、岩手大学学芸学部甲一類を卒業後に陸前高田市立気仙中学校の教諭となる。その後県内の中学校の教諭などを経て、平成6年4月に盛岡市教育委員会指導課長、平成10年4月に盛岡市立下橋中学校校長となり、翌年4月に岩手県中学校長会会長に就任。
 平成12年に退職。
 同年4月から平成17年3月までの5年間は盛岡市先人記念館館長として活躍された。
 米内光政は、大げさな平和論を展開はしませんでしたが、戦時中総理大臣として、また海軍大臣として戦争の回避や、一刻も早く戦争を終結をさせようとしたことで知られています。残された手紙を読みながら戦時下に生きた米内光政の人物像を紹介していただきました。
 米内光政には著書もなく、終戦の時、日記、メモ類をすべて焼却処分していたため、人となりを探る手掛かりは、残された手紙だけだそうです。
 そこで及川三治さんは、高田万亀子さん著「米内光政の手紙」のなかの親友荒城二郎に宛てた手紙を紹介してくださりながら「なぜ軍服の平和論者米内光政、淡々と淡々となのか」を語ってくださいました。
 米内光政は1880(明治13)年生まれ。父親受政(ながまさ)は、旧盛岡藩士で市長選に出、一番の票を得たが、当時の知事が認めず、失意のまま行方不明となり、光政は母親に育てられた。
 母親は常日頃「いい振りするな。威張る人は一番嫌い。」と教えていたそうだ。
 鍛冶町小学校から岩手尋常中学校、海軍兵学校に。大将になった者としてはめずらしく、海軍兵学校での成績はよくなかったとか。
 
 本人も望まなかったせいか軍人としての出世も遅かったそうだ。
1898(明治31)年 海軍兵学校入学
1901(明治34)年 海軍兵学校卒
1903(明治36)年 海軍少尉 舞鶴水雷団第一水雷艇隊付
1904(明治37)年 日露戦争
1906(明治38)年 海軍大尉 新高分隊長 こまと結婚
1908(明治40)年 海軍砲術学校教官兼分隊長
1909(明治41)年 敷島分隊長

30歳
1910(明治42)年 薩摩分隊長
1912(大正 元)年 海軍少佐 
 この年に32歳にしてひとの勧めでやっと海軍大学校に入学。
1914(大正 3)年 海軍大学校卒業。 旅順要港部参謀
 (第一次世界大戦始まる) 
1915(大正 4)年 ロシア駐在 大使館付武官事務補佐
1916(大正 5)年 海軍中佐
1918(大正 7)年 海軍軍令部参謀 ウラジオ派遣軍令部付
 (第一次世界大戦終結。 原内閣成立 )

40歳
1920(大正 9)年 ヨーロッパへ出張。海軍大佐。
 (国際連盟成立。新渡戸稲造が事務次長に選出された。)
1922(大正11)年 春日艦長
1923(大正12)年 磐手艦長  (関東大震災)
1924(大正13)年 扶桑艦長 陸奥艦長
1925(大正14)年 海軍少将 第二艦隊参謀長 (治安維持法)
1926(昭和 元)年 海軍軍令部参謀

50歳
1930(昭和 5)年 海軍中将 鎮海要港部司令官 
1931(昭和 6)年 (満州事変)
1932(昭和 7)年 第三艦隊司令長官
 (満州国建国宣言5.15事件)
1933(昭和 8)年 佐世保鎮守府司令長官(国際連盟脱退)
1936(昭和11)年 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
 (2・26事件)
1937(昭和12)年 海軍大臣 海軍大将 (日中戦争)
1939(昭和14)年 軍事参議官 (第二次世界大戦)

60歳
1940(昭和15)年 内閣総理大臣
 米内が退いた後すぐに日独伊三国同盟が締結された。
1941(昭和16)年 こま夫人死去 (太平洋戦争)
1944(昭和19)年 海軍大臣 (本土爆撃本格化) 
1945(昭和20)年 海軍解散 (ポツダム宣言受諾)
 太平洋戦争終戦に尽力、帝国海軍の幕引き役を務めた。
1948(昭和23)年 4月20日死去(享年68歳)

  
 50歳で鎮海要港部司令官になる。鎮海行きとは窓際族ということだそうだ。
 その鎮海から友人荒城二郎に宛てた手紙(昭和6年6月15日付け)には
 「草木荒涼鎮海ノ野 後輩知ラズ興廃ノ数」などとユーモアのある漢詩を交えながら「大和民族は他を同化する先天的素質を持っていると屡々耳にし、時々考えてみることであるが、事実は果たして如何なるものか。東西両洋の文明を統一融合して世界平和を指導するのは、大和民族の使命であると威張るその意気は至極結構だが、地上から足を浮かして雲を掴むようなウヌボレと空元気では将来は思いやらるる。朝鮮統治ということを思う時、次代の鮮人を判断することは先決問題と考えらるる」とある。

    

 米内光政は、軍人としては凡庸で、昼行灯、ぐず政と言われていたそうだ。 
そんな米内が脚光を浴びることになったのは2・26事件だった。この事件を決起隊、占拠隊、騒擾部隊などと陸軍はよんでいたのを米内は反乱軍であるとし、それは「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ此レガ鎮定に当タラン」と発言された天皇の意向に沿うものであり、これ以来天皇は、米内を強く意識された。
 陸軍の台頭を阻止するには米内しかいないと推されて本人の意思でなく内閣総理大臣となるが、半年ほど経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求し、米内は、これを拒否する。陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させてその後陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。

 昭和19年には、戦争の終息の使命をもって海軍大臣をさせられた。
 
 また米内は戦後の東京裁判で証人として出廷した際に被告となった畑俊六をかばって徹底してとぼけ通し、「こんな愚鈍な首相は見たことがない」と言われも平然としていたという。
昭和22年4月6日の手紙
「 ・・・・明日は昔の鈴木内閣の組閣記念日なり。会場錦水、会費三百五十円なりとのこと。小生は不参加。三百五十円惜しきにあらず。 人是人非都不問 花開花落総関心」

 及川三治さんは、米内光政の人間性について 1.現場の人であり、本来政治家は嫌いであった。2.先見の人である。若い頃から日本各地、海外に行き、よく知りよく学んでいた。3.無私の人。名誉や地位をもとめなかった。4.信念の人。信念で生きた。5.理想の上司。部下の話や提言を良く聴き、受け入れ、その後指示を出す。指示を出したら全て任せる。そして責任は自分がとる。このように評価された。
 また170cm、80kgと体格もよく、厳格であるが、手紙からも読み解けるようにユーモアもあり、文学性もあり、女性にも大変もてたそうです。

 米内光政は、おおげさな平和論を展開しなかったが終生、戦争の拡大を拒否した軍人であり、与えられた環境の中で母の教えを守り、いい振りせず寡黙に信念を通し、人是人非都不問、まさに淡々と淡々と生きた人物であったことが良くわかりました。他にもたくさんのエピソードをお話いただきました。ありがとうございました。
 先人記念館のホームページはこちらからhttp://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/senjin/senjin/
                                                      (写真・記 小泉)