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第16回文化サロン   2006年4月20日
「石川啄木と金田一京助〜京助の“愛”に支えられた啄木〜」
   ゲストスピーカー 森 義真氏
近代文学研究家
プロフィール

 森 義真氏は1953年(昭和28年)盛岡市に生まれる。
 盛岡一高を経て一橋大学社会学部を卒業。 大阪の精密機械メーカーに17年間勤務した後、1993年に帰郷し岩手県産株式会社に入社し現在に至っています。
 その間、関西啄木懇談会に入会して以来、石川啄木についての愛好と研究を深め、1994年に国際啄木学会に入会、現在評議員として活躍されています。  

啄木関係の主な著書
 『盛岡中学校時代の石川啄木』、分担執筆に『啄木からの手紙』、『石川啄木事典』、『論集 石川啄木U』などがあります。 


    開会の挨拶をする「いわてシニアネット」の佐野理事長

石川啄木の生涯
1.短歌(4,000首)俳句は10句だけ
 文語から口語になっていく時代に啄木の短歌はわかりやすく、かなりの
貢献をしたといえる。また、わかりやすいだけでなくすべての日本人の心
のインデックスになっている。そして今でも新しい。
2.文学ジャンル
 小説15、評論、日記多岐にわたる。
 今年は石川啄木生誕
120周年です。
 本日の文化サロンは、石川啄木の研究家でもある森 義真氏に盛岡市の名誉市民第一号である金田一京助と啄木の出会いから親交、啄木の臨終、没後の顕彰に至るまでのさまざまなエピソードを語っていただきました。

   処女歌集「一握の砂」
 512通の書簡について(受信人は106名) No,1宮崎郁雨72通・No,2金田一京助44通
3.文学的生涯
 原稿料をもらっていたということもあり決して薄幸ではなく恵まれていたのではないかと思う。
 「あこがれ」は盛岡高等小学校の同級生小田島真平の紹介で得た300円で出版(明治38年5月)
 「小天地」は啄木の友人大信田落花の援助で発行(明治38年9月)
 中央文壇に列なる文豪との出会い。与謝野鉄幹、上田敏、森鴎外、佐々木信綱、伊藤左千夫
 平野万里、吉井勇、北原白秋、木下杢太郎などなど。
4.恵まれた交友関係
 朝日新聞に就職したのも盛岡市出身佐藤北江の厚意。
 金田一京助をはじめ宮崎郁雨や若山牧水などから献身的なまでの援助を受けていた。
 啄木には底知れぬ魅力があったといえる。
金田一京助の生涯
 生誕地は今の仁王小学校近くの金田一薬局があるところ。
 祖父は二戸市金田一村南部家の御用商人大豆屋福助。
 父は、盛岡銀行、盛岡電気の取締役、岩手軽便鉄道の社長になった事業家であり和算家の金田一勝定。
 「白い紙に墨で字を書く学問をやれ」と誰も手をつけていないアイヌ語の研究をすることを喜び、北海道や樺太に行く京助に大金を援助したという。
 京助は東京帝国大学在学中に上田万作の講義に啓発され言語学科を選択し、アイヌ語研究を志す。
 卒業後、三省堂の辞典校正係になりその後、国学院大学の講師として就職し、東京帝国大学や早稲田大学の講師も兼ねた。
 口承文学「ユーカラ」の筆録と研究のためにアイヌ人に同居してもらい「ユーカラ集」を出す。また『国語音韻論』など国学分野でも顕著な研究をし、『明解国語辞典』などの編集も手がけた。
 啄木没後は、啄木関係の著作を発表し、啄木歌碑の建設や顕彰のため力を尽くした。

京助にとっての1912年(明治45年・大正元年)
 啄木が亡くなった1912年、その年は京助にとって良くも悪くも大変な年だった。
 前年生まれた長女郁子の死。親友原抱琴(原敬の甥)の死。父久米之助の死。三省堂の解散。拓殖博覧会(上野)開催。開催期間中フリーパスを得てそこに来ているアイヌ人に付きっ切りで学ぶ。

啄木と京助
 京助は啄木との初めての出会いを「最初の印象」として書き残している。京助高等小学校4年生、啄木は新入生。見たところ6つか7つの子供と見違えそうな可愛らしい啄木に「このでんびこ」と云うと奮然とかかってきて「赤ん坊のような子だが、馬鹿にできない手ごわい子だな」と思ったという。
 啄木は、及川古志郎のような海軍の軍人になるのを望んでいたというが、京助から明星を全部借りて一気に読んでからは文学に深い関心をもつようになったようだ。
 明治35年17歳の秋中学を退学して、文学をもって名を成すべく上京。が数ヶ月で帰郷。その後堀合節子と婚約し自立のためにも詩集刊行を考え再度上京。東京帝国大学在学中の京助の下宿、赤心館を訪問する。
 その後堀合節子と結婚し、翌年生まれた長女に京助の京をとり京子と名づける。
 啄木は明治40年に北海道に移住したが、明治41年には3度目の上京をし再び京助のいる赤心館に同宿。下宿代を払えず京助が見かねて払い、2人して蓋平館別館に移りすむ。
 明治42年京助は啄木の紹介で生粋の江戸っ子の林静江と結婚する。その年啄木は東京朝日新聞社校正係となり、妻子と母も上京してきた。生活に困窮し、たびたび京助に借金をし妻の静江に嫌われるようになる。
 明治43年啄木の長男真一生まれるが死亡。12月、歌集『一握の砂』を発行。そこには、「宮崎郁雨君、金田一京助君、この集を両君に捧ぐ」とあるが、その頃京助と啄木との交流はうまくいっていなかった。
 明治45年3月啄木の母死亡。4月13日啄木死亡(享年27歳)。亡くなる前に啄木は京助に来てもらっている。
 京助『想い出の記』には、
  いろいろの事はありしも 死ぬ時はやっぱりわたし
  を呼びし啄木 
 死ぬ数日前、啄木晩年の親友土岐善麿の尽力で出版の契約をし20円の稿料を受け取り、没後同年6月歌集『悲しき玩具』が発行される。
 1年後の5月、追うように節子逝く。 

 その後京助は、啄木の顕彰のため力を尽くした。
 啄木の作品は、時代の先駆性を感じさせるものが多く、それでいて日本人の心の奥にあるのノスタルジアを呼び起こしてくれる。 
 アイヌ語ユーカリという前人未踏の学問を切り開くという愛情と根気と努力の金田一京助なくして石川啄木なしともいえる。
 母性愛のような愛を啄木にそそいでいた。
 京助にとって啄木は夢の代行者でもあったのだろう。
 森さんは、展墓 展碑に興味を持っているそうです。

啄木碑 全国には160基ほどある。
1922年渋民鶴塚に啄木歌碑第1号が建つ
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸邊目に見ゆ
  泣けどごとくに  啄木

第2基目は函館市立待岬の墓歌碑
第3基目は盛岡市天満宮
 『街もりおか』の4月号に掲載されている森 義真さんの書かれた『啄木忌前夜祭』を紹介してくださる『街もりおか』の編集長斎藤五郎さん
 
 今回の文化サロンも椅子が足りなくなるほどたくさんの方にいらしていただきました。埼玉の川越からいらした方もいて、根強い啄木ファンにあらためて驚かされました。
 たくさんのお話をありがとうございました。 
啄木の啄は旁に点がありますがパソコンのフォントにその字が無いため啄としましたことをお許し下さい。
                                                    (写真・記:小泉)