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第13回文化サロン   2006年1月19日
「原敬の美学〜いのち、義、愛、紳士道〜」
ゲストスピーカ:木村幸治氏  
盛岡市原敬記念館館長・岩手県NIE(教育に新聞を)協議会会長
プロフィール
 昭和15年花巻市生まれる。
 岩手大学学芸学部卒業後、岩手県内の公立中学校、岩手大学付属中学に勤務。下閉伊教育事務所、岩手県教育委員会指導課主任指導主事などを経て石鳥谷町立石鳥谷中学校校長、岩手県立総合教育センター次長を勤められました。
 平成12年度に盛岡市立松園中学校校長を以って定年退職。
 翌年より原敬記念館に勤め、現在に至っています。そのかたわら岩手県保護司もなさっています。
著書
「岩手の歴史ものがたり」「岩手県の地理ものがたり」「岩手教育史」「本音で言える若手の言い分VS管理職の胸の内」「私たちの手づくり学校物語」など



賀正は原敬が好んで使い、普及するようになったという
 木村さんは、「原敬さんの年賀状は毎年賀正の文字と岩手山でした」とポスターを広げ、謹賀とは中国の宮廷用語で、総理大臣になった原敬は簡単明瞭な賀正を使っていましたと新年のご挨拶をしながら話し始めました。
 
 まず平成16年に木村館長が毎日映画社の膨大な映像から発見したという総理大臣原敬が映っている貴重なビデオを見せてくださいました。
 原敬総理大臣は、頑迷な国家主義者や天皇を神と崇拝する者たちにとりまかれていた裕仁皇太子(昭和天皇)を、宮中から離して民主的な世界を体験させる必要があると考えヨーロッパ訪問を推進しました。

 皇太子は、6ヶ月間の外遊(イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・イタリア)を無事終えられ大正10年9月3日に帰国されました。原敬は、横浜までお迎えに行き、列車に同乗して東京までお供しています。
 この時の様子が、白黒フイルム(無声)にまとめられているものです。お召艦「香取」に乗船、甲板での乾杯、原敬のあいさつ、東京駅のプラットホ―ムなどが写っています。
 皇太子はイギリスに着くまでの2ヶ月間に、徹底的に礼儀作法や外国の歴史などを教わり、指導者は皇太子に教えるとはとんでもないと辞表を胸に覚悟して教えたことなどを映像を見ながら語られました。
 原敬は外遊の2週間前に暗殺の風評を耳にし、死を覚悟し遺言を書いていたといいます。 
 そして皇太子が帰国された1ヵ月後暗殺されました。
 
 原敬は暗殺された11月4日中国の新聞記者と面会し「私が首相になってからは、大隈、寺内内閣の時のような中国との摩擦はおこしていないしこれからもしない」と断言していたといいます。
 原敬が大正7年9月29日総理大臣となり本当の民主主義がスタートし、大正10年11月4日に原敬の死によって民主政治が崩れ世界平和に危機が訪れることになりました。


ビデオを見る皆さん
 
 藩閥を打ち破った改革者
第19代目の原敬総理大臣の前、18代までは西園寺公望以外すべて薩長側の伯爵や侯爵で徳川幕府側で平民の総理大臣は初めてでした。

・初の政党内閣、民主主義政治
・全国の群制度廃止
・国会議事堂の建設着工
・富国強兵から産業立国に大転換
・全国の交通網、特に鉄道の地方線を敷いた(今ある県内の鉄道のすべてを手がけた。全国も同じように)
・中等教育の充実
・国際平和・国際協調
・原敬の寄付で岩手県立図書館建設開館 などなど
 
その他のエピソード
議会で初めて「私は」と言ったのは原敬。それまでは「本官は」「本大臣は」と言っていたそうだ。
・大阪毎日新聞社社長時代「家庭の栞」「家事問答」「文芸欄」などの家庭欄を作ったのは原のアイデア
・礼儀作法のエッセイ「でたらめ」を出版する。でたらめとは原のペンネーム(日本の男性はもっと女性にやさしくするべきだということも)
・原敬はフランス仕込みのベストドレッサー(ワイシャツと靴にこだわる)
爵位の拒否(爵位は藩閥側が制定したもので、あくまでも貴族にならずに平民でいることにこだわった)
原敬の雅号「一山」は、かつて薩長人が奥羽の存在を嘲弄し「白川以北一山百文」と表現したことからだという
遺書には葬儀一切について記されていた。香典、花一切受け取らないこと。葬儀は盛岡で墓には氏名のみ記すことなど
大慈寺にある肖像画は皇太子のお陰 原敬の恩恵で渡欧し洋画家となった雫石出身上野廣一画伯が、大勲位菊花大綬賞(没後受けた)を付けた原敬の肖像画を描きたいと考えたが勲章は関東大震災によって消失してしまい受賞していた人に借りたいとお願いしても「閣下からいただいた尊いものを貸すわけにはいかない」と断られた。それを聞いた昭和天皇が「原敬のためならば」とかしてくださったという。
死んでも先生をお守りしたいとの遺言をのこした原敬の葬儀委員長を務めた秘書官高橋光威(新潟出身)の墓が大慈寺の原敬の墓を守るようにあるという。
原敬の妻 浅のエピソード
・読み書きのできない浅は毎朝原敬が新聞の連載小説を読んで聞かせてくれるのを楽しみにしていたという。
・原敬の暗殺後、遺体を現職の総理大臣なので首相官邸へ運びたいと周りのものが言うなか、夫人は、「亡くなれば官邸に用のないものですから宅へ送り届けます。それは主人の志でもあります」と言ったそうです。公私の区別がきちんとした人だったのです。
・暗殺された時の着衣の処分を聞かれ浅夫人は子息(養子)の貢が留学中なのでそのまま持っていたいと言ったという(着用していた洋服は、原敬記念館に展示されている)
・残された原敬の通帳の政治資金であったと思われる100万の大金(今なら5000倍ほど)を浅は、私欲を見せず、一部は原より渡してほしいと言われていた人に渡し残りのすべてを政友会に寄付したという。
・原敬の棺がどのくらいの深さで埋葬されたかをと覚えていてほしい私がそこに入る時は見下ろさないように埋めてほしいと言ったという。
・その後一年数ヵ月後に亡くなる

 原敬は清廉潔白の人とは聞いていましたが、原敬が生きていたら戦争は無かったかも知れないと思えるほどの総理大臣だったことがよくわかりました。この時代に、原敬が推薦したと言われる東京府知事阿部浩、朝鮮総督の斎藤實、東京市長の後藤新平などの素晴らしい人物を輩出した岩手の素晴らしさをつくづくと感じた一日でもありました。ありがとうございました。            (写真・記 小泉正美)
原敬記念館のホームページはこちら↓
http://www2.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/harakei/hara/top/index.html